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多羅倭人伝 :: 《11》

  • posted by: uro
  • date: 2009/10/14 AM12:55 (水)

 恭愍王(コンミンワン)と李穡(イ・セク)たち若きブレーンを中心に「双城(サンソン。のちの永興(ヨンフン))奪還作戦」の下準備がひそかにすすめられていた頃。
 高麗(コリョ)の王都、開京(ケギョン)の某所にて。タラこと太郎が二人の男と小さな卓を囲んでいた。一人はイ・セク。もうひとりは彼らよりひとまわりは上の壮年の男だ。
 「このたびの、俺たちの作戦は、高麗(コリョ)朝廷にとっては表ざたにはしたくないものだ。朝廷内には親元派もそれなりの勢力を持っている。連中は自分らの権益を守るためならなんでもやるだろう。連中にとっては元朝皇帝こそが主人だからな」とその男が言った。
 「文徳(ムンドク)どののいわれるとおりだ。なかでも奇轍(キ・チョル)などは今の元朝皇帝の外戚(がいせき)だ。彼らにとっては今の王様など恫喝(どうかつ)すればなんとでもなると思っている」とイ・セクが応じた。
 「王様はよく理解を示されましたね。我々のたくらみに」と太郎が言った。
 「元(げん)の都で十年間、高麗(コリョ)の民のために人質同然の苦労をされたお方だ。今動かなければ一生後悔する。誰が出した案であろうとあらゆる可能性に賭けたい、と仰せだった」イ・セクが太郎を見やって語った。
 「それに」と文徳(ムンドク)が言った。「テマドへの食糧支援と交換条件で、大量の硫黄(いおう)を入手できたことは何よりだった」
 硫黄は当時、薬として珍重されたほか、火薬製造に欠かせない原料として使われていた。とくに九州の薩南諸島の硫黄が島から琉球にかけては大量に産出し、国の枠にこだわらない海上勢力の私貿易によって流通していた。
 「テマドの黒瀬(くろせ)ナニガシは裏で手広くやっている。博多を通じて中国江南の張士誠(ちょう・しせい)ともつながりがあるようだ。テマドで会見したとき首にたいそうな装飾品を着けていたろう?」と文徳(ムンドク)が二人に問うた。
 「あれは夜光貝(やこうがい)だ」と太郎が言った。
 「螺鈿細工(らでんざいく)などに使われる巻貝だな。あれは琉球でしかとれぬものだ」とイ・セクが言った。
 文徳(ムンドク)はうなずくと、つづけた。
 「テマドは、倭国(わこく)のなかでは辺海の孤島か、鬼の棲む鬼が島のように蔑まれているらしいが、都の貴族より連中のほうが世間が広かろう」
 テマドとは、対馬島の朝鮮語読みでの発音だ。
 「そういうものかもしれぬな」とイ・セクも同感の様子だ。
 「ところでタラ。こちらの都の冬には慣れたか?」と文徳(ムンドク)が太郎のほうを見て言った。
 「こたえるよ。外の寒さには…」と太郎が答える。
 「だろうな」とイ・セクが応じて、「部屋のなかはオンドルがあるからいいが、開京の冬は確かに寒い」
 「テマドの冬も寒かったが合浦(ハッポ)や巨済島(コジェド)と変わらぬ」と文徳(ムンドク)。
 「東北面に比べれば大したことはないがな。いずれにしても屋外の夜は凍える」とイ・セク。
 「からだを温めるにはこれが一番だ。まあ、グッといけ」文徳(ムンドク)が、太郎に手渡しした茶碗に透明の液体を注いだ。
 太郎はすすめられるままにひとくち口に含んで喉を鳴らした。
 喉がひりひりする。香りはいいが強烈だ。
 「…酒ですか。これは?」太郎は顔をしかめて文徳のほうを見る。
 その様子を見守りつつ、イ・セクはニコニコとほほ笑んでいる。
 「焼酒(ソジュ)さ。あの崔茂宣(チェ・ムソン)がよく好んで飲んでるやつだ」とイ・セクが言った。
 やがて日本にもその製法が伝わり”焼酎(しょうちゅう)”と呼ばれるようになる蒸留酒である。高麗(コリョ)王朝時代、朝鮮にはすでに蒸留酒造りの技法が元(げん)から伝えられていた。しかしこの頃、日本は言うまでもなく、高麗や中国の一般庶民が主に愛飲していたのは今で言う”濁酒(どぶろく)”だったらしい。
 「見た目、水かと思った…」と太郎が言う。
 「濁酒(タッチュ)と違って濁りがなく澄んでいるからな」とイ・セク。
 「それにしても」と太郎が何かを言いかけ、「とんだことに文徳(ムンドク)さんまで巻き込んでしまったようで…」
 「それは違うぞ、タラ。俺はむしろお前に感謝せねばならぬ。長い被虜人(ひりょにん)暮らしで失くしかけていた武士(ムサ)としての誇りを思い出させてくれた」と文徳(ムンドク)は言った。
 「まったく…あなたたちは似ている。まるで親子のようだ」とイ・セクがあきれ顔で応じた。
 「それはよい。最高のほめ言葉かも知れぬぞ」と文徳(ムンドク)は言い、豪快に笑い飛ばした。
 「まずは、よき理解者である王様に感謝することです」とイ・セクは二人に言った。
 「そうだな」と文徳(ムンドク)はイ・セクにうなずくと、つづけて、「タラよ。お前の国では、目的達成のため堅く結束することを神に誓うとき、起請文(きしょうもん)とやらを焼いた灰を、神に供えた水に混ぜて飲み交わす風習があるそうだな?」と太郎に向ってたずねる。
 「一味神水(いちみしんすい)ですね」と太郎が応じ、飲みかけの茶碗を文徳(ムンドク)に手渡す。
 文徳(ムンドク)は、太郎に差し出されたその茶碗を受け取ってグッと一息に飲み干した。

 明けて恭愍王(コンミンワン)五年(西暦1356年。この年、日本では北朝方は延文元年、南朝方は正平十一年という年号をそれぞれ使用)。恭愍王(コンミンワン)が高麗国王に即位して五年目のことである。
 元朝のひざ元、中国からビッグニュースが伝わってきた。
 漢人反乱軍のなかで頭角を現していた朱元璋(しゅ・げんしょう)率いる反乱勢力が江南・長江下流域の重要拠点を攻略したという。
 街の名前も、それまでの「集慶」から「応天」と改められた。現在の南京(ナンキン)である。二月のことだった。
 長江下流域は、古来より、中国の豊かな穀倉地帯である。集慶はその中心都市であり、長く元朝の江南エリア支配の拠点だった。
 つい数年前、黄河中流域で河川の氾濫で一帯が大きな被害を受けた。住民が流民となるのを恐れた元朝は、華北地域の農民15万人、兵士2万人を堤の修復に強制動員した。過酷な徴発と強制労働のなかで、弥勒信仰(みろくしんこう)と結びついた反乱がおきるようになった。各地で、かつての宋王朝のシンボルカラーだった紅い布を頭巾にした反乱勢力が乱立し、内乱状態になっていたのだった。とくに、元朝が都をおいていた華北から遠い江南地域は早くから群雄が割拠していた。元朝皇帝、トゴン・ティムールも、大都(現・北京)にあって江南地域の平定を指図(さしず)する。しかし江南地域から大都への物流ルートである大運河沿いは紅巾軍(こうきんぐん)系の反乱勢力が暴れまわっていて完全にマヒ状態。海の玄関口である長江下流域は塩の海運業者出身の張士誠(ちょう・しせい)らに抑えられていた。援軍を送りたくともそれどころではなかった。
 そのようなときだった。高麗(コリョ)の恭愍王(コンミンワン)のもとへ、元(げん)の大都から早馬の伝令が到着した。
 「即刻、援軍を編成し、帝都に馳せ参じるべし!! 」元朝皇帝、トゴン・ティムール(順帝)からの使者は叫んだ。
 恭愍王(コンミンワン)は自らその使者にまみえ、その書状をうやうやしくひざまずいて受け取った。
 軍勢催促状だった。大都からの使者は、元朝皇帝の意思を一方的に伝えると駿馬に跨(またが)り脱兎(だっと)の如く引き返して行った。
 その後ろ姿が遠ざかるのを見届けると、恭愍王(コンミンワン)はその書状をびりびりと破り捨てた。そしてつぶやくように言った。
 「ついに来た。蒙古の枷(かせ)を外す時が…」
 
 太郎や成文徳(ソン・ムンドク)は、かねてからのイ・セクの指示通り、江華島(カンファド)に向かった。
 時を同じくして。宮廷では、すぐさま頼みとする側近や武将たちが集められた。
 まずは、先手を打って宮廷内の親元派のたまり場である役所、「征東行省(せいとうこうしょう)」が廃止され、奇轍(キ・チョル)ら一党を虜(とりこ)にした。
 「守備隊は王都の要所を固めよッ! 全軍、まず平州(ピョンジュ)に向かう!」
 恭愍王(コンミンワン)は直属軍を前にそう言った。
 王都守備隊が開京(ケギョン)に通じるすべての街道の出入り口を制圧するや、王自ら直属軍を率いて、すぐ北方に位置する平州(ピョンジュ。現・平山(ピョンサン))に向かった。
 後に、太郎がイ・セクから聞いたところによれば、すでにこの日のために信頼できる家臣をその街に派遣していたらしい。
 平州(ピョンジュ)で陣容を整えた軍勢の前に再び現れた恭愍王(コンミンワン)の姿を見て、兵士たちはあっと驚いた。
 宮廷内の決まりであるモンゴル貴族の着衣ではなく高麗伝統の服装だったからだ。そして一堂の注視するなかで、懐刀(ふところがたな)を兵士たちにも見えるように高く頭上に掲げてから自らのモンゴル式の辮髪(べんぱつ)を切り捨てたのだった。
 そうして、はじめて公式に自らの意思を発した。
 「我らが向かうは元(げん)の大都にあらずッ! これより東北面の双城(サンソン)を奪還するッ!」
 平州(ピョンジュ)から内陸を横断していくうちに兵力は膨れ上がっていった。
 はじめのうちは、元朝の報復を恐れ、通過する各地の沿道では動揺が見られたが、軍勢の先頭に恭愍王(コンミンワン)の姿を認めると、人々はその軍勢を待ち受けては食糧などを持ち寄って歓迎した。
 とくに、元の直轄領である東北面に近い地域では日頃の収奪も酷(ひど)かったため、各地の親元派の役人に抑圧されてきた地主層や農民たちは民兵となって合流していった。(つづく)

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