太郎が恭愍王(コンミンワン)に仕えるようになってからも、金 大尚(キム・デサン)は開京(ケギョン、後の開城(ケソン))に仕事で来るたびに彼の住処へ顔を出してくれた。太郎は最近、宮城内の敷地に住むことを許された。異国人としては破格の待遇だった。
「殺風景だな、この部屋は…茶を入れてくれる女子(おなご)でも居ないのか?」
招かれた部屋で、太郎が自ら茶葉を急須に入れ、湯を注ぐのを見て、デサンが冷やかし半分に言った。
太郎は苦笑いして、筒型の青磁碗(せいじわん)にそそいだ熱いお茶を勧める。
「その土地に根づくには、その土地のおなごを妻にめとるのが一番だ」と含みのあることを言う。そしてがらりと話題を変えて、「まあ、本音を言えばだ。せっかく育てた舵取り(かじとり)を王様にさらわれて残念だが、今となっては引き合わせた俺も鼻が高いよ。王様の信任がなければこんなところには住めないからな」
「いや、おいらを身内同様に扱ってくれたあなたのおかげだ。もちろん、あの王様のおかげでもあるけど…」と太郎は言った。
キム・デサンはそれを聞いて何度も深くうなづいた。
この頃の、高麗(コリョ)王朝の宮廷内は、長い元朝(げんちょう)との服属関係のなかで、モンゴル高官と姻戚関係を結ぶことで権勢をふるってきたグループが宮廷内に一大勢力を形成していた。
ときの元朝皇帝、順帝こと、トゴン・ティムールの第二皇后の兄にあたる奇 轍(キ・チョル)ら奇氏一族に代表される人々である。彼らは”権門勢族”などと呼ばれた。そのたまり場ともいえるのが、「征東行省(せいとうこうしょう)」だった。役所の名前である。もともとは、元朝が日本征討のため、高麗の首都・開京(ケギョン)に置いた官庁だったが、元朝が東南アジアや日本方面への侵攻を断念してからは、高麗の内政を監視する役目を担っていた。元朝の目であり、耳でもある諜報機関でもあった。
何か高麗王独自の動きを察知すると、彼ら”権門勢族”は元朝の権威を笠に着て、恭愍王(コンミンワン)に政治的な圧力をかけた。何しろ、コンミンワンの后(きさき)はモンゴル皇帝の娘なのだ。
太郎を近習(きんじゅう)に加えたことも、すでに彼らにも知れわたっていた。
<賊を身近に置くなど危険きわまる!>
<テマドのまわし者ではないか!>などと一時は問題にされかけた。”テマド”は対馬(つしま)の高麗語(朝鮮語)読みだ。
そのたびに、恭愍王(コンミンワン)は言ったものだ。
<あの者はすでに労役に服しておる。ゆえに、すでに賊ではない。余の家臣同様のものを辱めるのは余に対する讒言(ざんげん)に等しい!>
もちろん、彼らは王様が太郎を近習(きんじゅう)に加えたことを納得したわけではない。太郎も直接聞いたわけではない。しかし、この話を伝え聞いて太郎は思った。この人物なら、この先も仕えてもいい、と。
「しかし、あのときは肝を冷やしたもんだ」とデサンが話題を変えた。どうやら、”東池(とうち)”で、太郎が鑿(のみ)一本で船を沈めた一件のことらしい。
「潜水は海人(あま)の得意とするところです」と太郎。
「確か、タラの母上も耽羅(タンラ)のアワビ採りの出身だったそうだな?」とデサン。太郎がうなずく。「耽羅(タンラ)」とは今の済州島(チェジュド)のこと。伝統的な呼び名で当時はそう呼ばれた。
「もともとあの島の人々はほとんどは海人(あま)だったというが、元朝が直轄地にして軍馬を育てる牧(まき)を設置して以来、だったん牧子(ぼくし)の島になった。今では人より馬の数のほうが多いんじゃないか…」デサンはそう言うと首をすくめて見せた。”だったん牧子(ぼくし)”とは、耽羅(タンラ)で生まれ育ったモンゴル系住民の馬飼いのことだ。元朝の耽羅(タンラ)植民地化の過程で蒙古本国から移民させられた人々の子孫たちだ。
「テマド(対馬)も耽羅(タンラ)に劣らず素潜りの上手(じょうず)がたくさんいるけど、とりわけあの技は”河童の竹蔵(たけぞう)”伝来のものです」と太郎は言う。
「タケゾー?…とは誰だ?」デサンが問う。
「元寇(げんこう)のとき、抵抗運動で活躍したという伝説の英雄ですよ。テマド(対馬)の」太郎がじぶんの茶碗を手になじませながら応じて、「佐須ノ浦(さすのうら)に侵入して上陸した蒙古の軍船の船底にはりついて穴を穿(うが)って沈没させたという…」
「そうか…」とデサンは言った。「俺はこれまでじぶんの国の被害ばかり思っていたが、あの侵略戦争で最も被害を被ったのはタラの故郷(さと)なんだよな」
「子供の頃、よく聴かされた古老の昔語りに出てくるムクリ・コクリは赤鬼や青鬼ばかりだった。でも、この国にきて同じ人間だとわかった」と太郎は言う。
ムクリ・コクリとは、モンゴル人と高麗人のことをさす。「元寇」の被害を最も被った対馬、壱岐(いき)、北九州エリアで長く伝えられる物言いだ。
<しかし…>と太郎は思うようになった。元朝の侵略を受けたのは日本だけではない。しかも、元朝と一体と思い込んでいた高麗のなかには、その侵略戦争に果敢に抵抗した高麗人がたくさんいた。元朝が兵站基地とした高麗内部でのサボタージュや抵抗運動はあの「元寇(げんこう)」を2~3年は遅らせたといわれる。だからこそフビライがもくろんだ日本遠征が失敗したことも知った。元朝に日本侵略を断念させた要因は、のちに”神風(かみかぜ)”と呼ばれるようになる運のいい台風のおかげばかりではなかったのだ。
高麗は敗者ではない。長い間、異民族に支配されても、このように自分たちで作り上げた素晴らしい文化を受け継いでいる。デサンはそう言って翡翠色(ひすいいろ)に輝く青磁茶碗を手に取り、茶を飲み干した。
王都・開京(ケギョン)にほど近い江華島(カンファド)を望む海岸。
ひとりの青年が目の前に広がる海を眺めている。やがて男は着衣を脱いだ。小柄ながらよく鍛えられた海の男だ。赤銅色に焼けた体のあちこちにはタツノオトシゴ模様の文身(ぶんしん。いれずみ)で彩られている。
太郎だった。俘虜(ふりょ)時代のような、子供っぽい面影はもうない。
彼はふんどし一丁になると、傍らに用意してあった網状の袋を腰回りに巻きつけると、長さ1メートル以上はある魚槍(ぎょそう)を片手に握って仁王立ちになった。そして、磯だまりで体を海水になじませると、海岸の岩礁が途切れて砂状になっているあたりから静かに入水して泳ぎ始めた。
しばらくは、海岸から呼べば声が十分届く距離を保って岸辺に沿って泳いでいく。
太郎は一度潜った状態で海岸の方角を見た。岩礁が海岸から海中に張り出しているところが見えた。岩礁が崖(がけ)となって海中に落ち込んでいる場所だ。岩がごつごつした斜面には海藻が豊かに繁茂している。こういうところは魚や貝類など海の生き物たちにとって絶好の住処になっている。
魚の群れが悠然と泳いでいる。陸地の海岸から眺めているのとはまったく異なる世界が展開している。
彼は水面付近をゆっくりと泳ぐ。ある場所まで来ると、彼は魚槍を握りしめ、素早く海底目指して潜っていった。海底の岩の陰に身を潜め、その岩の上に魚槍を固定した。獲物に照準を合わせると、じっと自分自身も岩と一体化した。狙った獲物の姿がふらりと動いた瞬間だった。太郎は構えた魚槍の引き金を引いた。
獲物は魚だった。魚はのけぞり身をくねらせた。海中に鮮血の花がパッと咲いたかのようだ。
太郎は離れ銛(もり)に付いた紐(ひも)を手繰り寄せると海底を蹴って海面目指して浮き上がっていく。
太郎が浮き上がった海面のそばには、いつの間にか一艘の船がいた。その船の上から、太郎に声が掛けられた。
「どうだった? タラ」丸顔の小さな目の男が船端から上半身を乗り出している。
「どうだ! イ・セク。これを見ろよッ!」太郎は獲物を入れた腰袋を外すと、その魚の入った袋ごと船のなかに投げ入れた。
「ほお、たいしたもんだ。海中で仕留めるとはな」イ・セクと呼ばれた男は袋の中をのぞきながら太郎に言い、「しかし、いつも思うんだが、わざわざ潜るより釣ったほうが手っ取り早いんじゃないのか?…」
「こうやって獲った魚は、釣ったやつより身がひきしまってて旨いんだ」と太郎は応じた。
さてこの頃、地方に目を向けると、新しい胎動が見られた。その一つが科挙(クァゴ)制度の復活によって、地方出身の新興官僚が中央政界を目指し始めたことだった。
もともと科挙制度は有能な人材を発掘するためのしくみであった。しかし、元朝の皇族と姻戚関係を結んだ”権門勢族”が力を持つなかで、高位高官は彼らの世襲制のように独占され、制度は有名無実となっていた。
恭愍王(コンミンワン)は元の都から戻って王座に着くと、彼ら”権門勢族”とせめぎあいながら科挙制度を本来の姿に戻そうとした。そういう取り組みのなかで、各地方で中小地主層の子弟たちのなかから自力で科挙に合格し、中央官界入りする人々が育ってきたわけだ。彼らは、いわゆる名門の出でもなく、中央にコネもなかった。しかし、高麗の現状に不満を抱き、儒学、なかでも実践的な朱子学(しゅしがく)を政治理念とするという共通点を持っていた。太郎が恭愍王(コンミンワン)に仕えてしばらくすると、そういう人々が新しい王の後ろ盾を得て活躍の場を与えられていった。
ほかでもない、イ・セクもそのうちの一人だった。
イ・セクは太郎が恭愍王(コンミンワン)の御座船(ござぶね)の水手(かこ)をしていた頃からの知り合いだった。彼は、宮廷内で”賊扱い”されていた太郎を蔑むことなく接した数少ない人物だった。
相手が高官だろうとへつらうことがなかった。かといって独善的なのではない。自分と信条の異なる者、たとえばイ・セク自身は当時頭角をもたげてきた新興の朱子学を信奉する儒学者だったが、対立する仏教徒に対しても聞く耳を持っていた。
王様を除けば、当時唯一の既婚者だったこともあり、太郎には同世代とはいえ、大人に思えた。
彼は元朝の都、大都(今の北京)で科挙に合格したほどの人物だ。かの地で暮らしたこともあり、元の内部事情にも通じていた。
恭愍王(コンミンワン)が大都から帰国して王位に就いた頃。元朝は広大な中国経営に行き詰っていた。皇室内部の財政難と飢饉(ききん)のなか、経済の活性化と朝廷の威信回復を狙って黄河の治水事業を強行しようとした。しかし、長い間の異民族による支配と過酷な収奪によって、元朝に対する住民の不満が爆発した。後に言う「白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱」だ。末世に民を救うために現れるという弥勒菩薩(みろくぼさつ)を信仰する宗教結社を母体とした集団だ。大義名分としては、かつてモンゴルに滅ぼされた宋王朝の復興を標榜(ひょうぼう)した。往年の宋王朝の皇室のシンボルカラーだった「紅色」を意識し、頭に紅い布を巻いたことから、のちには「紅巾賊(こうきんぞく)」を呼ばれるようになる漢人を主力とする勢力だ。
そのほか、その頃知り合いになった人物としては、崔茂宣(チェ・ムソン)がいた。のちに「ロケット砲の元祖」を開発する人物だ。イ・セクに言わせれば、火薬ばかりいじっている変わり者、らしい。彼とは、恭愍王(コンミンワン)に意見を求められ、イ・セクに伴われて謁見(えっけん)に出向く途中の宮廷内で出会った。
その頃のチェ・ムソンは、恭愍王(コンミンワン)をスポンサーにして資金を獲得し、火薬を用いた火器の開発や製造に没頭していた。普段は、宮廷内に作ってもらった「走火研究室」なる部屋にこもっているようだった。
《走火研究室》と書かれた看板が掲げられた部屋の前だった。太郎はイ・セクと偶然通りかかった。すると、部屋の扉が開いて、なかから一人の男がふらりと顔を出した。
「おお、ムソンか。たまには海にでもいっしょに行かぬか? いい気分転換になるぞ」イ・セクがそう言って笑った。
「大きなお世話だ…俺には俺の楽しみッてやつがある…」後日、イ・セクに聞いたところによれば、没頭していた火薬の調合がうまくいかないらしく、機嫌が悪かったらしい。それでも、イ・セクの隣りに太郎を見つけると、退屈しのぎか、からんできた。
「おお、お前かあ!? 海東(かいとう)の水人(すいじん)とやらは…」とチェ・ムソンは言い、「鑿(のみ)一つで海賊船を一艘沈めちまったそうだな? 火薬も使わずに…」
「からむなよ。ムソン」イ・セクがとっさに太郎をかばう。
「からむ? とんでもない! ほめてるんだ…」とムソンは応じる。何やら息が臭かった。
「…酒臭いぞ、こんな刻限から飲んでるのか?…」イ・セクが言った。明らかに説教じみている。
「わかった、わかった…儒学者先生にはかなわねえ…じゃあ、またな、海東の水人ッ!」チェ・ムソンはそう言うと、部屋の中に引っ込んで戸を閉めた。
「悪いやつではないのだが…」とイ・セクは、まだあたりに漂う酒臭い空気に顔をしかめ、「まあ、大目に見てやってくれ。ああいうやつだが、みるべきものはあるんだ。それより、急ごう。王様がお待ちだ…」
そう言って太郎を促した。
「どうみる? 今の元朝のありさまを?」恭愍王(コンミンワン)が真剣な表情でイ・セクに向かって質(ただ)すように問う。
「官軍の統制はとれておらず、内乱は広がるばかりのようです」とイ・セクは応える。
「漢人の反乱勢力についてはどう思う?」矢継ぎ早に、恭愍王(コンミンワン)が意見を求めた。
イ・セクはしばらく口を一文字に結んでいたが、やがて口を開いた。
「あの連中には当分、元朝のひざ元で暴れてもらうのが好都合でしょう。しかし…」と彼は考え込んで、次の言葉を選んでいるようだった。
「しかし、なんだ?…」と恭愍王(コンミンワン)はたずねる。
「はっきり言って、あの連中は諸刃(もろは)の剣です。大義名分としては、漢民族主導による王朝の復活をかかげ、今はその矛先は元朝の官軍に向かっております。しかし、すべての勢力が明確な政治目標をもつ規律のとれた軍勢ではありません。ただの盗賊団と変わらぬ連中も数多くおります。なにかのきっかけで、わが国の領域へ乱入してくるかも知れませぬ」とイ・セクは言う。
「諸刃の剣か…」王は眉間(みけん)にしわを寄せ、「では問うが、われらがいまのうちに為すべきは何か?」
「征東行省(せいとうこうしょう)の廃止、それに、蒙古軍に占領されている国内の拠点奪還かと、存じます」とイ・セク。”征東行省”はかつて元朝が高麗王朝の王都・開京(ケギョン)に設置した役所で、高麗国内の動きを見張る役目をを果たしていた機関だ。親元派の実力者、奇氏一族などのたまり場になっていた。
「征東行省はなにかとやっかいだが、余が長官でもあるから問題はない。抵抗はあるだろうが。あと、拠点というとどこだ?…」恭愍王(コンミンワン)は努めて声をひそめてイ・セクに質(ただ)した。
「まずは…」とイ・セクは言いかけて、その部屋の周囲の様子をうかがってから応えた。
「東北面の双城(サンソン)かと…」(つづく)
『多羅倭人伝(たら・わじんでん)』のエントリ


