今回の上京は、米穀類や特産品を運搬するだけではなかった。高麗王朝の王位を継承した新しい王様へのあいさつうかがいでもあった。
「新しい王様ってどんな人なんだい?」と太郎は金 大尚(キム・デサン)にたずねた。
「恭愍王(コンミンワン)さまのことか?」とデサンは応じ、「元(げん)の都に住んでいた皇太子時代に、何度か向こうでお会いしたことはある。まだお若い人だ。年はタラからみると兄貴みたいな年齢だな」
「へえー…」と太郎。
「王様として年はまだ若いが、何かをやってくれそうな気がしている…」デサンが河の流れを見ながら言った。洛東江(ナクトンガン)は傾斜が緩やかで船の往来がスムーズだ。
「どういうこと?」と太郎が問う。
「具体的なことはわからないけどな」とデサンは前置きし、「王様の、名前からして画期的だ」
「どういうふうに画期的なんだい?…」と太郎がいぶかしげに問う。
「そうか…タラはこの国にずっと暮らしてるわけではないからな」とデサンは言った。「わが国は元朝(げんちょう)に服属して百年近い。以来、歴代の国王は元朝への忠誠を誓わされてきた。その証(あかし)の一つが王様の名前だ」
キム・デサンはそのあたりの事情を太郎に説明してくれた。高麗王朝の王となる人物は、その皇太子時代の一定期間を元朝の都で過ごさなければならなかった。元朝にとっての、忠実な”臣下”となる修養期間である。同時に、人質という側面もあったろう。
皇太子は高麗の王となるに際し、宗主国・元朝への忠誠を表明する意味で、王名を付けるとき、必ず”忠”の字を使わねばならなかった。しかし、恭愍王(コンミンワン)は自らその前例をあっさりと捨てたに等しかった。
「まだある」とデサンはつづけた。一般庶民の日常生活ではともかく、最近まで宮廷社会ではモンゴル語が公用語だった。支配者の言葉だからだ。だから少なくとも宮廷内ではモンゴル語で話さなければならない、というしきたりがあった。でも、今度の王様は違った。
”ここは高麗なんだから高麗の言葉で話そう”という。
「まあ、当たり前のことなんだがな…」とデサンは言い、「この国では今までは当たり前のことじゃなかった。よその民族に支配されるッてことは、そういうことさ…」
高麗国の王都、開京(ケギョン)。王城の中心にある満月台。
キム・デサン一行は、そのなかにある謁見(えっけん)の間に通された。
しばらくすると、一人の若者がお供たちに囲まれてあらわれた。二十代前半だろうか。王様、という威圧感はない。しかし、目元に聡明(そうめい)さはうかがえた。
髪型や着衣はモンゴル風である。高麗の王様、と紹介されなければ、モンゴル人高官の子弟と区別がつかないだろう。
<この国はムクリの属国なのだろうか?…>と太郎は思い知ったものだった。ムクリは蒙古のこと。
「久しいな」玉座(ぎょくざ)に着くと、その若者はキム・デサンに向かって懐かしそうに話しかけた。その若者は間違いなく恭愍王(コンミンワン)という王様のようだ。
「王様におかれましてはご機嫌うるわしく…」キム・デサンが言いかけると、手振りでそれを制し、
「堅苦しい挨拶は止そう。キム・デサン。それより、お父上はご壮健か?」
「おかげさまで。最近はさすがに老いました。とはいえ、同業者の寄り合いにもいまだに出ておりますほどで。私などはこの年になっても子ども扱いされております…」
「アハハ…それはなにより」王様は笑って、「そうそう、先ほど土産物をいただいた。やはり、リンゴはテグのものに限るのう」
「さっそく召し上がりましたか?」とキム・デサン。
「おお、いただいた。さっそく果実膳に使わせていただくとしよう。后(きさき)はじめおなごたちは料理にどう生かすか、早くも評定中じゃ」と王様は言った。
「それはありがたいことです。リンゴは慶尚道(キョンサンド)の特産物の第一ゆえ、王様のおほめにあずかり光栄です」キム・デサンはこうべを垂れる。
「とりわけテグは水の里。水の旨いところは美女も多い、とか申すでな。あっはっは!」と王様は笑った。
「恐れ入ります」とキム・デサンが応じる。
「ときにキム・デサン。珍品が手に入った」王様は思いついたように言うと、「そのほうらも話のタネに見に来るがよいぞ。東池(とうち)のほうへまいれ。ではそちらで後ほどまた会おう…」王様は玉座から立ち上がると、あらわれたときと同じようにお供たちに囲まれて謁見の間から出て行った。
<珍品とは何だろう?…>キム・デサンはそう心の中でつぶやくと、太郎と無意識のうちに顔を見合わせた。
”東池(とうち)”とは、満月台の東にある人工の池のことである。周囲には堤(つつみ)が築かれ、王族や高官たちが船を浮かべて宴遊(えんゆう)するところだという。
太郎たちがその場所へ出向くと、すでに恭愍王という若者が、お供の人々といっしょに堤の一角でくつろいでいた。多くの人々ははやくも酒が入っているらしい。取り巻き連中の目元もほんのり赤みを帯びている。
池の真ん中あたりに船が一艘浮かんでいる。太郎はその船をじっと見ていたが、しばらくしてアッと声をあげそうになった。彼がそこに見たのはまさに”八幡船(ばはんせん)”だった。
”八幡船(ばはんせん)”とは、海賊船の通称である。やがて、連中の跋扈(ばっこ)するエリアが朝鮮半島から中国沿岸地域に変わっていくなかで、一般交易船などを襲って積み荷を奪ったり、人員を拉致したりすることを中国語で「奪販(バファン)」というようになる。「八幡(はちまん)」の漢語読み「ばはん」に通じるところから東アジア海域の海賊船をそう呼んだ。のちに”倭寇(わこう)”と呼ばれるようになる海賊たちが「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」を信奉し、それを旗印として好んだため、そういう通称で呼ばれたものらしい。
「どうだ、デサン」と若い王様は言った。「船に詳しいそちでも間近に見るのははじめてではないか?」王様がデサンに問うた。
「こ、これは…ひょっとして八幡船(ばはんせん)ではッ!」と驚くキム・デサン。
「そのとおり。江華島(カンファド)あたりまで侵入した賊船団のうち、わが水軍が拿捕(だほ)した一艘なのだが…」と王様は言い、「ちょっとした余興をやろうかと思うてな」
その場に居合わせた側近や水軍の将たちは、何が始まるのか、興味しんしんで王様のほうを注目している。
王様はみなの注目を引きつけてから口を開いた。
「この船を見事沈めて見せたら、ひとつだけ願いをかなえてやろう」王様はまわりをゆっくりと見渡した。
「火矢でも、焙烙(ほうろく)でも、役に立たなかった代物じゃ…」と水軍の将の一人がつぶやいた。
「小火(ぼや)を起こすぐらいはできようが…」という側近の声もする。
「おいらなら沈められる」声の主は太郎だった。
「おい、何を言い出すんだ(!)…」太郎の隣りにいるキム・デサンが太郎の着衣の袖(そで)を引っ張って困惑する。
「その者は誰じゃ?」王様は太郎のほうを見てキム・デサンに質(ただ)した。
「この者はもと倭俘(わふ)でございましたが、今は私の船の舵取り(かじとり)でございます。ただいまの発言はこの者の世迷いごと。なにとぞお許しを…」キム・デサンは肝を冷やした表情でひたすら這いつくばっている。
「いいや。その者は、世迷いごとどころか、自信を持って言いおったぞ」と王様は笑って応じた。「おもしろいではないか。やってみせよ。望みは何だ? 遠慮はいらぬ。申してみよ」
太郎はしばし考えているようであったが、思い切って恭愍王(コンミンワン)のほうを見やると言った。
「この国で服役している俘虜(ふりょ)たちを帰してやっていただけないでしょうか?」
「それは困ったのう…そのほうの国という相手のあることじゃ。しかし約束は約束。今すぐは無理じゃが取り組んでみよう。それに、そのほうの国には俘虜(ふりょ)の何倍もの数のわが良民が囚われ奴婢(ぬひ)にされているという。互いのためにも努力してみよう」と王様は答えた。
それを聴き終えると、太郎は道具箱に駆け寄って大鑿(おおのみ)と鉄鎚(てっつい)を取り出した。
「失礼…」王様のほうに一礼すると、ふんどし一丁になった。
恭愍王(コンミンワン)以下、その場に居合わせた面々が思わずあっと声を発したのは、そのいでたちのせいばかりではなかった。太郎の両腕や背中の文身(いれずみ)に唖然とした。朝廷の側近の人々にはまさに野蛮人そのものに見えただろう。
太郎はそんな周囲の驚きを振り払うように、ざぶんッと水しぶきをあげて池に飛び込んだ。
人々が息をのんで見守るなか、静かな時間が過ぎていった。超人的な潜水時間だ。普通の人間なら息がすでに続かないほどの時間が過ぎている。
キム・デサンが心配そうに太郎が飛び込んだあたりの池の水面を凝視し続ける。
見栄(みえ)を切った手前、出るに出られず、溺れてしまったのではないか…彼がそんなことを思った時だった。
太郎が飛び込んだ場所とは見当違いの、あらぬ場所から太郎がぷっかりと水面に顔を出した。そして、キム・デサンの心配をよそに、悠々と岸辺まで蛙泳ぎでたどりついたのだった。
太郎は着衣を整えると、王様の面前に控えた。すると…先ほどまで悠然と池に浮かんでいた船が揺らぎ始めたではないか!…
「おおッ、これはなんという…!」その場の見物人となった人々は驚きを隠せなかった。
船は喫水線(きっすいせん)が深くなり、徐徐にではあるが沈みだしている。
王様のそばに居流れた側近や水軍の将たちが唖然とするなか、船は池に沈んでいった。
「あっぱれじゃ! さすが、海東の水人(かいとうのすいじん)じゃ!」恭愍王(コンミンワン)は叫ぶ。「この者を、余の近習(きんじゅう)に加えたい。どうだ? キム・デサン」
側近や将軍たちの表情が一瞬にしてこわばり、まゆをひそめる。かたわらの側近の一人が何事かを言いかけたが、王様はそっと落ち着くように制し、そしてキム・デサンと太郎のほうに顔を向けた。返答を待っているように見えた。
キム・デサンは明らかに動転していた。しかし、よくよく考えてから、こうも思った。王様のそば近くにいたほうが、太郎の望みがかなえられやすいかもしれない…。同時に、対馬や日本各地で奴隷として使役されているという同胞を救うために太郎が役立つかもしれない…。
<これも、なにかの宿縁か…>デサンは太郎のほうを見て日本語で言った。
「タラに任せる。お前の好きにしろ…」
太郎は、しばらくデサンを見つめていた。が、何かを決したように、王様に向きなおって言った。
「お仕えします」
「からだの文身(ぶんしん。入れ墨)はなんのためのものじゃ?」恭愍王(コンミンワン)が問うた。
「これは鱶(ふか)などから身を守るおまじないです」太郎が応じる。鱶(ふか)とは今でいう鮫(さめ)のことだ。
王様は、側近以下、家臣たちのほうを見渡してからうなずいた。
「名はなんと申す」と王様が問う。
「タラと申します」
「タラ…?と、申すか」
キム・デサンが、そばにいた部下に紙を要求すると、懐(ふところ)から携帯用の筆を取り出した。達者な筆遣いで紙に何かを書いてそれを王様にうやうやしく指し示した。
そこには「太郎」を朝鮮語で発音した音に近い漢字二文字を当てて”多羅”と書いてあった。(つづく)
『多羅倭人伝(たら・わじんでん)』のエントリ


