”タラ”こと太郎は尚州(サンジュ)で生き抜いていた。
来る日も来る日も拘置所と町の郊外を往復して、荒れ地を耕していた。低湿地での開墾作業にも駆り出されていた。溝を掘って水田にするのだ。
この頃、高麗(コリョ)では、肥料が開発されたり、稲の新しい品種が普及するなど、農業技術が大きく進歩した。毎年耕して毎年収穫できる田圃(たんぼ)が実現していたのだ。
今では当たり前かもしれないが、この時代は、たとえば隣りの日本などでは1~2年土地を休ませなければ稲が育たなかったのだ。
「対馬(つしま)とは違うな…」太郎はつぶやいた。
彼が生まれ育った対馬島はゴツゴツの岩山ばかりで、周りは豊かな漁場とはいえ海ばかり。
ここは何もかも違った。
夏には一面の田畑が広がり、秋には夕日を浴びて黄金色に輝く稲穂が風にそよぐ。島育ちの太郎にとってはそういう風景は物珍しかった。そんな景色を見るたびに、この国の豊かさの源を見る思いがした。かつて、蒙古(モンゴル)が、何にあこがれ、何を狙い、この国を侵略し支配することをもくろんだか。今となってはよくわかるような気がした。
「だけど、なぜ?」と太郎は疑問も感じた。こんなに豊かな恵みを生み出す土地に住む大多数の人々はというと、決して豊かとはいえないのだ。少数の特権貴族たちが所有する「農荘(のうそう)」と呼ばれる広大な農地で働く農耕民たちは、腹を満たすために山に分け入ってドングリの実を食しているのだった。
日本は南北朝動乱の真っ最中。しかも、この頃(西暦1350年代前半)になると、対立の構図は京都の北朝(足利幕府方)vs吉野の南朝(いわゆる宮方)というような単純な抗争ではない。幕府・北朝方も足利尊氏(あしかが・たかうじ)の将軍方と足利直冬(あしかが・ただふゆ)をかつぐ勢力とに分裂。それに加えて、吉野の亡命政権(南朝)がからんで離合集散を繰り返していた。何しろ政治的な立場によって年号が三つも同時に並び立っていたのが実情だ。
たとえば西暦でいえば1351年。幕府・北朝方は観応(かんのう)二年、南朝方は正平(しょうへい)六年、足利直冬を担ぐグループは貞和(じょうわ)七年という具合にてんでばらばらの年号を使っていた。
一方、高麗は宗主国である元朝(げんちょう)からの内政干渉や日本の領域からの武装強盗集団の襲来など難問が山積していた。まさに内憂外患のまっただ中だった。
そういう両国の事情がからんで、双方の捕虜の送還交渉はお互いに糸口が見いだせないまま棚上げされていた。当事者の一人でもある当時の太郎にとっては、そんな事情など知る由もなかったが。
そして、一年が過ぎたころだ。
ある日。太郎が他の高麗人の官奴たちとともに荒れ地の開墾に精を出していると、官庁の役人が何人かの男と連れだって作業現場へやってきた。太郎を呼びつけているようだ。
ここで生きるため、太郎はじぶんの通称である”太郎”という名前の朝鮮語読みである”タラ”を名乗っていた。日常会話程度は片言だが話せるようになっていた。
三人の男が近づいてきた。いつもの官庁の役人と、いつもの通訳担当の男。少し離れてこちらをうかがいながら近づいてくるもう一人は初めて見る顔だ。風体からして、役人や武人ではないようだ。
「おいタラ。あの男がお前と話があるとさ」いつもの通訳官が、ぶっきらぼうに、あごでその見知らぬ男のほうを指し示す。
太郎が躊躇(ちゅうちょ)していると、
「許可をもらってやった。特別にな」通訳官はそう恩着せがましく言って、懐(ふところ)から銀の塊(かたまり)をのぞかせてニヤリとほくそ笑んだ。どうやらその見知らぬ男から”袖の下(そでのした)”でも渡されたものらしい。
通訳官は役人のいるほうへ去った。それを見届けるかのように、その見知らぬ男は太郎に近づいてきた。
「やあ、高麗(コリョ)のことばは話せるのか?」その男は尋ねてきた。
「あまり…」太郎がそう言って首を横に振ると、
「そうか。では倭語(わご)で話そう」と日本語で言った。そして、少し離れたところで立ち話をしている役人たちのほうをちらっとうかがった。久々に聞く日本語だった。
「お前の名前は、タラだな?」と男は確認するように問うた。太郎が男の目を見据えたままうなずく。
「お前、水手(かこ)をしていたそうだな? 海賊船の」男は間髪入れずに畳み掛ける。
「……!」太郎は口ごもる。
「隠さなくてもいい。先刻承知だ」と言い、多少表情を和らげて、「お前が合浦(ハッポ)の拘置所にいた頃、金竜(キム・ニョン)という守備隊長がいたろう? 覚えてるか?」
一番手を焼かせた人物だけに、名前は太郎も覚えていた。
「ネー」太郎は思わず”はい”と高麗の言葉(朝鮮語)で応じた。
「俺はそのキム・ニョンのいとこだ。廻船業をやっている金 大尚(キム・デサン)だ」さらにつづけて、「このあいだ、商売で合浦(ハッポ)に立ち寄ったときやつに会った。そのときやつに頼まれたんだ。尚州(サンジュ)に行って、タラという少年にもし会えたら、引き取ってやってくれないか、とな」
太郎は何とも答えようもなく黙っていた。
「俺はいま、水手(かこ)を探している。しかも腕の良い水手(かこ)をな」とキム・デサンと名乗る男は重ねるように言った。「テマドの水手(かこ)なら文句なしだ。どうだ。やってみる気はあるか?」
太郎が意外な展開に驚いていると、キム・デサンはさらに話をつづけた。
「この国も、王様が替わってから方針が変わったんだ。俘虜(ふりょ)でも、何かの技能に優れた者はその技能をこの国のために活かさせよ、とな」
太郎がなおも呆然と黙っていると、キム・デサンは言った。
「タラよ、お前は十分罪を償った」と言い、「初対面の人間に矢継ぎ早にあれこれ言われて驚くのは無理もない。そうだ。コレを預かってきた…」キム・デサンは背中にしょった袋の中から細長い革袋を取り出すと太郎に無言で差し出した。太郎にはすぐにわかった。父の形見だった。
”朝鮮半島の背骨”ともいえる太白(テベク)山脈を源とする洛東江(ナクトンガン)は、半島南部の水上交通の大動脈だった。
テグは、その中流域にある広い盆地にひらけた町だ。冬は北方から冷たく乾いた風が吹いてくる。内陸部の冬は厳しい。夏と冬の寒暖差が激しいが、そのおかげで、果樹の実の甘みは増すという。なかでもリンゴの旨さは定評があり、都の開京(ケギョン)まで知られていた。
キム・デサンはこの町を拠点にしている廻船業者だった。南海の魚介類や沿岸部で作った塩を内陸方面へ運んだり、リンゴなど慶尚道(キョンサンド)内陸部の特産物を南海沿岸部にもたらして生計を立ててきた。代々御用商人として、都の宮廷にも出入りを許されていた。
太郎がキム・デサンの使用人になり、テグを住処とするようになってから一年が過ぎた。
最近では、運搬船の舵取り(かじとり)を任されるほどになっていた。
あるとき。デサンの供をして、はじめて都の開京(ケギョン)へ上る機会がやってきた。
「以前は南部の米どころから都へコメを運ぶ時は海路で西岸沿いに北上していたのだがな。租米運搬船がよく賊船に襲われるようになってからはこの洛東江(ナクトンガン)がよく使われる」
キム・デサンは運搬船の舳先(へさき)に立って、進行方向を見据えながら言った。隣りには太郎がいる。
洛東江(ナクトンガン)の、西のかなたに、ひときわ目立つ山が見える。
「あの山は…?」太郎がデサンに問うた。
「カヤ山(さん)さ」とデサンが応じる。
「カヤ山…」太郎は口に出して言う。彼には何か懐かしい響きが感じられた。その表情を見てとったキム・デサンは語った。
「むかし、ここらあたりから、この河が南海にそそぐ金海(キメ)というところにかけて、そういう名前の国があったらしい。俺が子供のころ、村の語り部から聞いた話だがな」
「カヤって、国の名前なのかい?」と太郎は興味深げだ。
「今でも、タラの国では、郷愁を込めて、カラとか、カラックとか呼んでいるんじゃないか」とキム・デサン。
「対馬にいたころ、おとうに連れられて筑紫(つくし)に行ったことがあるんだけど…」太郎は船大工だった父親と九州本土に行ったことがあった。彼はその時のことを思い出していた。”筑紫(つくし)”とは当時、九州本土を指して言った呼び名である。
「そのとき、唐津(からつ)って港で風待ちしたことがある。その”カラ”っていうのは今の高麗(こうらい)のことだっておとうが言ってた」
「唐津(からつ)か…たぶん、むかし末羅(まつら)とよばれたところにある港だろう」とキム・デサンは言った。
「まつら、ならおいらも知ってる。唐津や呼子(よぶこ)のあたりを、みんな”まつら”ッて呼んでる」と太郎が応じた。
「そうか」とデサンはうなずき、「俺たち船乗りには国の境目なんてない。そんなものがあったら仕事にならない。タラの国にまだ国なんてものがなかったむかしは、カヤには倭人も住んでいたらしい」
「おいらのおっかあは耽羅(タンラ)から来たって聞いた」と太郎は言う。耽羅(タンラ)とは現在の済州島(チェジュド)のこと。耽羅(タンラ)は古来からの伝統的な名称であり、当時もそう呼ばれていた。
「やはり、タラのおふくろさんもアワビ採りだったのか?」とデサンが問うた。太郎が表情だけで同意する。
「耽羅(タンラ)は、昔も今も海人(あま)の本場だからなあ」とデサンが応じた。
中世を生きた人々にとっての”国”とはどんなものだったのだろうか。少なくともこれは言える。近・現代のような国家観とは違うということ。”国”とは、じぶんの生活圏のある地域に限られる。とりわけ、タラのように対馬というボーダーレスなエリアで生まれ育った人間にとって「日本人」という自覚はない。あえて言うなら「対馬人」だ。実際に当時は、日本の支配層からも高麗国からもそう認識されていた。
太郎にとっては、行ったこともなく、縁もゆかりもない京都や鎌倉のことより、耽羅(タンラ)のほうがずっと身近だった。
「俺の一族は金(キム)姓を名乗っているが、遠いご先祖は金官伽耶(クムガンカヤ)の王族だったらしい」とキム・デサン。
太郎は鳩(はと)が豆鉄砲をくらったような顔になる。
デサンは大真面目な顔をしてつづけた。
「タラがむかし、おやじ殿に連れられて行った唐津や博多があるところは”ツクシのクニ”ッていうだろ?」
太郎も、博多という港はよく知っていた。思えば、今の東京、大阪、名古屋などわが国の三大都市はまだなかったこの時代、すでに博多は日本国内のみならず東アジア世界屈指の国際交易都市として広く知れ渡っていた。
「そのツクシの”クシ”は金官伽耶(クムガンカヤ)の始祖、首露王(スロワン)さまが天から降臨なされたというクシ峯(ボン)の名に由来する、という伝えが俺の故郷(さと)にはあるんだ」とキム・デサンは語った。
「そのカヤって国はどうなったんだい?」と太郎が問うた。
「伽耶(カヤ)はな、金官伽耶を含めて六つの勢力から成り立っていた。しかし内輪もめが絶えず一つにまとまることがなかった。その頃、北方には高句麗(コグリョ)、東には新羅(シンラ)、西には百済(ペクチェ)と強国に取り囲まれた伽耶は、やがて百済に圧迫され、新羅に次々と併合されていったのさ。最後は完全に新羅の国の一部になったっていう…」
太郎が少し神妙な表情をして沈黙するのをみて、キム・デサンは努めて明るい表情をつくって言った。
「民というものは時に王侯貴族なんぞよりずっとたくましい。国はなくなっても、また新しい国の民として生きていく。当時は、少し海を渡れば新天地だってあったわけだからな」そう言うと、デサンはカヤ山のほうをまぶしそうに見やり、「そういう俺のご先祖も、いま敵味方に分かれて戦(いくさ)をやっているタラの国の王族とどこかでつながっているかもな」
「死んだおとうも似たようなことを言ってた」と太郎。「耽羅(タンラ)の島とおいらの生まれた対馬とは兄弟だって」
「だろうな」とデサンはかなたを見てつぶやくように応じた。「高麗(コリョ)や日本(イルボン)って国が出来るずっと前は、タラと俺のご先祖たちは思いのままに海を使って行ったり来たりしていたはずさ。今のタラの身なりを見て、誰も倭人とは見ないだろ? もし、俺がテマド(対馬)の青班(あおはん)を着ていても誰も高麗人と気付かぬのと同じだ。しかし、世の中、妙な枠(わく)をつくって”鬼は外、福は内”なんて自閉症気味になっちまった。今や、目の前のテマドとおおっぴらに行き来することすらままならぬ」
そう言うと、太郎のほうを見て苦笑いした。(つづく)
『多羅倭人伝(たら・わじんでん)』のエントリ


