朝鮮半島の南岸、合浦(ハッポ)にある沿岸警備隊の守備所内。
「まったく…」司令官の崔尚(チェ・サン)が頭をかかえている。その室内には彼しかいない。独り言のボヤキのようだ。
「あの連中は俺に個人的な恨みでもあるのか!…七十数年前の日本遠征の仕返しをするつもりなら、元(げん)の都の大都か、モンゴル駐屯軍が大勢いる耽羅(タンラ)へでも襲来すればよいのだ! 何の罪もないこの国の民を苦しめて何になる!…」
”耽羅(タンラ)”とは、今の済州島(チェジュド)の、当時の呼び名である。
あの襲撃事件のあと、四ヵ月後、合浦(ハッポ)はまたも賊船の襲撃を被(こうむ)った。租米(そまい)を運ぶ船舶や守備所が襲撃され、一般住民が居住する地区の家々も放火されたり、略奪を受けたりした。
合浦(ハッポ)は、昔から東アジア屈指の海上交通の要衝として知られていた。十三世紀の後半、日本側でいう”蒙古襲来””元寇(げんこう)”のときは、この港が出撃拠点となった。この地域有数の租米備蓄倉庫もあり、海賊集団にとっては絶好の狙い所であった。
しかし警備は手薄。現地の警備責任者であるチェ・サンらの再三の進言にもかかわらず、王朝政府の対応は鈍かった。
”たかが辺海(へんかい)の海賊相手に何を手こずっておる!”という態度で、沿岸警備要員の増員さえままならなかった。
中央の高官たちの多くは、宗主国である元朝にへつらい、私利私欲を肥やすこと以外に関心はなかった。チェ・サンたち現地の治安を任されている人間としては頭が痛かった。
執務室の扉が叩かれた。
「誰だ?…」とチェ・サン。
「金竜(キム・ニョン)です」と扉の向こうから応じた。
「ああ、お前か。入るがいい…」とチェ・サン。扉が開いて守備隊長のキム・ニョンが通訳官の男一人と、二人の守備兵、そして一人の少年を従えて入室してきた。
少年は暴れないように後ろ手にして縛られている。罪人のようだ。髪がぼさぼさに伸びている。
部屋のなかには二人の守備兵のうちの一人が残って、もう一人は部屋から出た。その部屋の前で見張り番に着くようだ。扉が閉められた。
「なんだ、子供じゃないか…」チェ・サンは、縄で縛られて跪(ひざまず)かされている少年を見て眉をひそめた。「倭賊は、こんな子供まで駆り出しているのか?…」
「まあ子供ですが、こいつは侮(あなど)れません」と言って、キム・ニョンは少年の頭を手で押さえた。「先ほど、ここへ連行する途中も、守備兵とひと悶着(もんちゃく)ありまして…」
少年は、言葉がわからないなりに、じぶんのことが話題にされていると察しているのか、キム・ニョンのほうを睨(にら)みつけて舌を出す。
「前回の襲撃事件で捕虜にした一人ですが…」とキム・ニョンは言いかける。
「で、こんどは何をやらかしたのだ?」とチェ・サンが少年を見据えて質(ただ)す。
「脱獄して近くの集落に潜り込みまして。漁師の家屋に侵入。その家の食糧を盗みました。で、干し鱈(ほしだら)の貯蔵小屋に隠れているところを家の者に見つかって乱闘になり、怪我を負わせました」キム・ニョンが一部始終を説明した。
「なかなかやってくれるな。この小僧」チェ・サンはその少年を正面から睨(にら)む。
少年は何事かを喚(わめ)いた。
「なにを吠えとる?」チェ・サンが、かたわらにいる通訳官に尋ねる。
「返せ、と言ってます。取り上げたものを返せ、と」と通訳官が応える。
「ああ、このことか?」キム・ニョンが懐(ふところ)から革袋を取り出した。何か棒状のものが収まっているようだ。
チェ・サンはキム・ニョンからそれを受け取ると、中身を確認し、少年に対して怒鳴った。
「よく手入れされた船匠の道具ではないか! 職人の魂ともいえる道具で人を傷つけるなどもってのほかだ!」そして、通訳官に向かって、「こちらで保管しておく、と言ってやれ」
チェ・サンは腕を組み直すと、気を取り直すようにキム・ニョンのほうに問いかけた。
「やはり、まだ何も話さぬのか?」
「話しません。子供ながらに、島の仲間に対して義理を立てているのでしょう」とキム・ニョンは応じ、「名前は仲間内でタラと呼ばれているようです」
”タラ”とは、”太郎(たろう)”という名前の朝鮮語での発音だ。当時は、その名前を表記するとき、”多羅”という漢字を当てることが多かった。
再び、チェ・サンは通訳官のほうに目をやる。同時通訳を頼むようだ。うなずいて了解する通訳官。
「タラ、とやら。お前は、どこから、来た?」チェ・サンが少年の目を見据えて問い詰めるように言った。
少年は、通訳官のほうをちらりと盗み見てから、チェ・サンのほうをにらむ。そしてあっかんべ~、をした。
「こいつッ! 調子に乗るな!」キム・ニョンが少年の頭をげんこつで小突く。
少年はそのキム・ニョンのほうを振り向いてやはりあっかんべ~、をかます。
「まあ、よい。子供を責めてもしょうがない…」チェ・サンがつぶやくように言った。
「聞くまでもないでしょう。こいつもテマドでしょうね」とキム・ニョンが念を押すように言う。
「なぜわかる?」とチェ・サンが問う。
「軍旗です」とキム・ニョン。「壱岐(いき)や五島列島(ごとうれっとう)、筑紫(つくし)の松浦党(まつらとう)なら、白地に黒丸三つの三ツ星です。こやつらの一団はコレでした」
そう言うや、キム・ニョンは部下の守備兵の一人に持参させたものを指差す。どうやら、それは折りたたまれた大きな布地のようだった。キム・ニョンはその守備兵と二人がかりでそれを広げて見せた。
幟旗(のぼりばた)だった。白地の布地に黒々とした、勢いのある筆致で、”八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)”の漢字がうかがえる。
「なるほど、倭の武人が敬(うやま)う神か…」とチェ・サンは言った。「この小僧はわが国の民に怪我を負わせておる。子供だからといってこのまま釈放するわけにもいかぬしなあ…」とチェ・サンは頭を抱える。
「それにしても」とキム・ニョンが同意しつつ言った。「”倭俘(わふ)”の数は増えるばかりです」
「そういう問題もある。現場としては…」チェ・サンが応じて、「現実問題としてだ。収容所のほうももはやこれ以上、”倭俘(わふ)”を入れて置く場所はない。この場でぼやいても始まらぬが、中央のお偉(えら)方は、もっと真剣に対応を協議してもらいたいものよ」
”倭俘(わふ)”とは、倭人の俘虜(ふりょ)の略称だ。のちに”倭寇(わこう)”と呼ばれる日本人を中心にした海賊の捕虜のことである。
賊はほとんど毎月のように、高麗国の沿岸部に押し寄せた。各地で捕えられた”倭俘(わふ)”たちの処遇については、その被害が集中した慶尚道(キョンサンド)や全羅道(チョルラド)沿岸部の現場の治安担当者にとって頭の痛い問題になっていた。
”倭俘(わふ)”の衣服や食事などは、地方の公費で賄(まかな)われており、拘留期間が長引くほど、その地域の地方財政を圧迫した。
<反抗的な者は脱走して付近に潜み、再び犯罪を犯すおそれもある。負担減らしのためにも即刻死罪に処すべし!>との議論も出た。
この頃の、日本側から襲来した海賊集団が、対馬、壱岐、および九州西北部の武士団に率いられた連中であることは、高麗側の調査で明らかになっていた。高麗国の治安当局者は、襲来する武装集団に統制力を及ぼすことのできる日本側の為政者、有力者に掠奪行為取締りを要請することになる。
しかし。高麗側はここで大きな問題にぶちあたった。この当時、海上武装勢力を統制するべき統一政権が肝心の日本側になかったのだ。
高麗当局は、この事実を、日本側の諸勢力と交渉する過程で痛感することになる。
京都周辺は、足利幕府率いる、新たに生まれたばかりの武家政権が不安定ながらも掌握してはいる。しかし内戦状態であることに変わりない。とくに、高麗側からも身近で、交渉相手としたい九州の大宰府(だざいふ)周辺は中央の統制から離れ、いっそう情況は複雑になっていた。
そこで。高麗当局は、交渉が可能になるまで、内陸部各地の官庁に、捕虜となった賊たちを分散して服役させることにした。もちろん、当事者である”タラ”こと太郎たちは、内陸部へ分散させられてから、そういう事情を知ったのであるが。
太郎は通称”タラ”と呼ばれ、慶尚道(キョンサンド)の内陸部に位置する尚州(サンジュ)という町へ送られた。
高麗(コリョ)は、朝鮮半島に西暦997年に誕生し、五百年近く続いた統一王朝だ。その成立過程で、契丹(きったん)に滅ぼされた渤海(パルへ)などからの移民・亡命者を多数受け入れたいきさつがある。高麗(コリョ)の国号の背景には、かつての強国・高句麗(コグリョ)の後継者を自任する意識も働いているようだ。そのエリアは現在の韓国と北朝鮮をあわせた版図にだいたい相当する。つまり、のちのちの朝鮮社会の基盤を固めた国だった。
高麗は朝鮮語で”コリョ”と発音する。今日でも、欧米などでは南北朝鮮を問わず”コリア”とか”コレイア”などと呼ぶのは、美しい高麗青磁(こうらいせいじ)や金属活字の発明などで世界に広く知られたこの当時の”コリョ”という国号に由来しているのだという。
高麗は朝鮮半島の統一王朝として、建国後すぐに日本など周辺諸国にも国書を送って通商を求めた。その頃のわが国は通史で「平安時代」と呼んでいる頃だ。しかし、当時の日本は、”異国がわが国を対等に扱う公文書を送ってくるのはけしからぬ”などという名分論を楯に無視し続けた。
当時の日本側の支配層は、高麗国を、それ以前にすでに滅んでいる統一新羅(シンラ)の残党と誤認する程度の国際認識しかなかったのか? それとも、ほかにわけでもあったのか?…
なかには、”高麗がわが国に攻めてくる!”という類のデマ、流言を真に受ける風潮さえあった。今日、日本側の通史で”刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)”と呼ばれている十一世紀はじめの事件がそれ。実際には、中国東北部に住む女真族(のちに満洲族などとも呼ばれるツングース系の勢力)によって対馬や九州沿岸から拉致された日本人男女二百余人を、高麗水軍が可能な限り救出して、しかも手厚く無事送り返してくれた、という記録が残っている。
それでも、そんな時代にあっても、対馬島民と高麗国の住民との往来自体はあった。
この時代を生きた人々から見て、前世紀におきた”蒙古襲来”はまだ何かと話題になっていたろう。蒙古、つまり元朝の三代目の皇帝フビライが発動した日本侵攻計画は、当の対馬、壱岐、九州西北部など、実際に蒙古軍の侵攻を被った地域の人々の苦しみに劣らぬほど、戦争協力させられた高麗の一般民衆にとって地獄だった。
蒙古の執拗な軍事侵略に屈伏させられ、元朝の属国扱いになっていた高麗には、対馬との間の進奉船(しんぽうせん)貿易さえ大きな負担になっていたのだ。
もちろん、そういう公式の通商関係が途絶えてからも、国境などに頓着しない対馬の島民たちは、支配者層の目を盗んでは密貿易に活路を見出していった。
じぶんたちで獲った魚介類や海水からつくった焼き塩を眼と鼻の先の高麗沿岸地域へ持ち込んでは、対馬に一番必要な米穀類と交換し合って生きてきた。
<こうらいとの交易は、わしら島民の命綱じゃ>
太郎も、船大工だった父親や鮑(アワビ)採りだった母親から、そういう話を聞いて育った。対馬の島民にとって、高麗は九州本土などよりよっぽど頼りがいのある交易相手だったのだ。
それが、いつのころからか、高麗国の役人が間に割って入ってきた。もちろん、交易から上がる利益をピンはねするためだ。
対馬島民自身も密貿易を高麗の役人から大宰府(だざいふ)あたりへ通報されては困る…という負い目もある。役人は法外な賄賂(わいろ)や手数料などを取り立てるようになり、ひどいときは追い返される始末。そうして、交易現場で刃傷沙汰(にんじょうざた)が増えていった。
高麗の中央政権は、過酷な宗主国・元朝への対応に忙殺され、港の”門戸”を閉ざしてしまった。
そして一方、わが国でも百数十年続いた鎌倉幕府が「元弘(げんこう)の争乱」で倒れ、後醍醐天皇が主導した建武政権も内部矛盾で短期間で崩壊。その後、南北朝の動乱と呼ばれる内戦状態が続いていたのだ。(つづく)
『多羅倭人伝(たら・わじんでん)』のエントリ


