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多羅倭人伝 :: 《2》

  • posted by: uro
  • date: 2009/08/16 AM10:49 (日)

 対馬(つしま)は船の材料となる樹木は豊富だった。
 島の船大工たちは、高麗国や中国の元朝の戦艦などに身近に接し、その造船技術を早い時期から学んでいた。
 彼らのつくる船は小型でも、堅牢な造りで、帆を装備する構造船だった。
 対馬の船乗りたちの行動エリアは今日われわれが想像する以上に広い。玄界灘、対馬海峡や朝鮮海峡、今の日本海側から東シナ海まで、思いのままに行き来していた。長い間に培われた、この島の船乗りたちの操船術はレベルが高い。
 物見船(ものみぶね)が二艘、”大口の瀬戸”と呼ばれる入り江から浅茅湾(あそうわん)に入ってきた。偵察から戻ってきたらしい。迷路のように複雑に入り組んだ水路をものともしない。
 「さすがに対馬の船道衆(ふなどしゅう)じゃ。達者やのう!」ある船着き場でその様子を見ていた一団の間から賞賛の声があがる。
 「まことに」と隣りに控える男が応じる。「しかし、われらとてひけをとりませぬぞ」
 「まあな…」と一団の長(おさ)らしき男が腕組みをして、隣りの男のほうに目線を向け、「われらのご先祖も、かつて遣唐使船の舵師(かじし)を務めたほどの腕自慢ぞろいじゃったと伝え聞く」
 「御意」と隣りの男はうなずき、「今日もせいぜい後れはとりますまい」
 「隔てるものは何もなし。海は櫓櫂(ろかい)の続くまでじゃ」その口元は不敵に笑っている。
 この一団の旗印は白地に黒丸三つがシンボルマークだ。黒丸三つがちょうど正三角形をかたちづくって紋様化されている。
 どうやら、九州・肥前国(ひぜんのくに)から合流した松浦党(まつらとう)の面々らしい。(ちなみに。”まつうらとう”とは読まない。その証拠に、もともと地域名としては「末羅」と表記しており、単なる当て字にすぎないからだ。だから発音に意味があり、漢字自体には意味はないわけだ。日本の地名にはこの手が非常に多い。)
 連中は、肥前の松浦半島から五島列島にかけて幡居(ばんきょ)する海上武装勢力である。その地域の船乗り、漁師、塩焼きなどをたばねる海武士たちの集団である。かつて鎌倉幕府のもとで「地頭御家人(じとうごけにん)」となる以前は朝廷に海産物を貢進していた御厨(みくりや)の供御人(くごにん)で、3世紀ごろ書かれた通称「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」のなかで登場する「末羅(まつら)国」の海洋民の流れをくむ人々でもある。
 彼らもまた、源平争乱の時代から”海賊衆”としてその名を都にまでとどろかせていた。
 船太鼓や鉦(かね)が打ち鳴らされ、浅茅湾(あそうわん)に響き渡る。いよいよ出陣の触れだ。
 ”八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)”と、墨跡も鮮やかな白旗の幟(のぼり)をかかげた軍船を先頭に、あちらこちらの船隠し(ふなかくし)から、”どこにこれだけの船が…!?”と怪しまれるほどの大船団が沸くように現れてきた。
 ほとんどが十人乗り、二十人乗りの小型船。船足の早い軽疾船だ。各船は楯(たて)で囲われ、乗組員のいでたちは水軍向きの軽量な鎖帷子(くさりかたびら)を身につけ、水手(かこ)以外は手に手に船槍(ふなやり)や弓矢、熊手などで武装している。
 内海(うちうみ)から”大口の瀬戸”を通って、やがて外洋へと出た船団はおよそ百艘。隊列を組んで朝鮮海峡を一路北へと進路をとって行った。

 ここは高麗(こうらい)国。朝鮮半島南部の沿岸に位置する屈指の港、合浦(ハッポ)。合浦は現在のマサンだ。韓国で「大口魚(テグオ)」と呼ばれる鱈(たら)の水揚げ港として今も有名だ。
 さて、この港には国営の米穀備蓄倉庫である「漕倉」がある。ここに集積された穀物は海路で首都・開京(ケギョン、のちの開城(ケソン))へと運ばれる。まさに海の重要拠点である。
 「司令官どのッ! たいへんです。賊が港に侵入!」港を見下ろす守備所に一人の男が飛び込んできた。守備隊長の金竜(キム・ニョン)だ。
 まだあたりは真っ暗やみ。控室で仮眠をとっていた軍司令官の崔尚(チェ・サン)は、その声に飛び起きた。
 「なにっ…!? 賊だと…? どこのどいつだ!?…」
 「何者かはまだわかりません。とにかく漕倉(そうそう)のほうです!」と守備隊長の金竜(キム・ニョン)。彼はそう言うが早いか駆け出そうとした。
 「ちょっと待てッ!」と崔尚(チェ・サン)が呼び止める。「俺も一緒に行く」
 崔尚(チェ・サン)は上着を引っ掛けたまま外に飛び出した。守備隊長の通報通り、漕倉(そうそう)のあるあたりが物々しい雰囲気に包まれているのが察知できた。
 「金竜(キム・ニョン)、お前、すぐに皆をたたき起してこい!」と崔尚(チェ・サン)。そのとき、数人の宿直兵が集まってきた。「お前は晋州(チンジュ)にいる長官どのにすぐに知らせに行け」崔尚は、そのうちの一人に告げた。そう指示を発すると、金竜や残りの兵たちとともに漕倉のほうへと向かった。
 崔尚が駆けつけ、たいまつをかざすと、大勢の何者かがうごめいている。目を凝らすと情況がわかってきた。どうやら、食糧の備蓄倉庫から物資を人海戦術で盗み出している最中だった。
 あかりに照らされたなかには、子供だろうか、小柄な影も見える。大人も子供も駆り出されているらしい。
 「お前ら、何者だーッ!」崔尚がどなりつける。
 すると。運び出し要員の周囲にいたらしい連中が奇声を発して守備隊に襲いかかってきた。全員抜刀している。
 混戦! 大乱戦! 圧倒的に侵入者のほうが人数が多い。顔つきまではわからないが、その発する言葉や衣服などからして高麗人やモンゴル人ではないようだ。
 何度か剣を交え、応酬(おうしゅう)するうちに崔尚は察した。
 <こいつら、ただの盗人じゃあない!…>
 何度か実戦経験のある彼には分った。賊は集団で戦うことに慣れている連中だった。
 やがて、海東(かいとう)の空が朝焼けのグラデーションになりはじめた頃。侵入者の全貌が眼前に浮かび上がった。なんと、港の入り江には軍船が何十艘といる。
 「これは軍隊だ! 侵略だ! ただの物盗りじゃない」崔尚はそう叫びながら応戦した。
 周囲が薄明るくなった頃、弓隊や騎馬隊の加勢が到着した。
 飛び道具が使えるようになると形勢が逆転した。周りが明るくなるにしたがい、数を頼みにして押していた侵入者側が浮足立ってきた。賊は、太刀や槍など斬り込みによる接近戦を得意とするらしかった。しかし、守備隊側の騎馬隊の投入で、侵入者側は孤立する集団が出始めた。
 守備隊は接近戦をできるだけ避け、騎馬隊の突入と弓隊の一斉射撃に切り替えた。
 侵入者は徒歩兵(かちへい)ばかりだ。どうやら、あまり陸上での戦闘には慣れていないようだ、と崔尚は見抜いた。手にしている武器からして水軍主体の軍勢のようだ。
 すっかり夜が明けていた。海のほうから船太鼓の音が鳴り響く。侵入者側の撤退の合図か。
 それをきっかけに、連中は仲間の骸(むくろ)を運ぶ間もなく撤退を始めた。
 碇泊(ていはく)している味方の兵船にころげるように駈け込んでいくさまが見える。孤立した連中は武器を捨てて投降し呆然としている。
 すでに帆を揚げて海のかなたへと去っていく船も見えた。
 「よーし、これまでッ! 」と崔尚が指示を下す。「逃げていくやつらはほおっておけ! 投降した連中の武器を押収して生け捕りにしろ!」
 一部始終が終わった頃。この地域の長官が国軍を率いて到着した。

 「まったくよお…」
 崔尚(チェ・サン)は守備所の自室で、長官の指示にしたがって報告書をまとめていた。「俺はこの報告書ッてやつが一番苦手なんだ…武術なら弓でも剣術でも自信があるんだがなあ…まったくあの賊どもが世話な仕事をつくりやがって…」
 そこへ、戸をノックして守備隊長が入ってきた。
 「おお、金竜(キム・ニョン)か。ちょうどいいときに来た」崔尚(チェ・サン)は救いを求めるような眼で部下を見た。「お前もご苦労だったな。こちらの被害情況はどうだ?」
 「備蓄米の二割程度が賊に奪われてしまいました。守備隊の被害ですが、死者は十数名、負傷者は三十余名ほどです。捕虜にした賊のほうは負傷者を含め四十名あまり、死者は三十名。すべて男です」金竜は几帳面に書かれたメモを確認しながら伝えた。
 「何者だろう、あの連中は?」崔尚は、そのメモを受け取りながら、金竜に質(ただ)した。
 「まだ取り調べ中ですが」と金竜は前置きをして語った。「私の思うには倭人(わじん)のようです」
 「倭人(わじん)?…」と崔尚。
 「あの船足の速さ、操船の巧みさなどからみて、おそらくはテマドの島民かとおもわれます」金竜はそう応え、つづけた。「私の実家は廻船業を営んでおります。私の子供のころは、かの島とも付き合いがまだありましたから、じぶんは倭人を見慣れています。軽量の鎧(よろい)の下に着込んでいる、あの柄物(がらもの)の着衣は”青班(あおはん)”と云って、彼らが好んで着用するものです」
 「なるほど…」崔尚は深くうなづく。
 「それに」と金竜はさらに付け加えた。「テマドの島民にとって、この海域は庭みたいなものです。海は国同士を隔てる障害ではなく、道そのものなんです」

 やがて。この襲撃事件の全貌が明らかになっていった。
 襲撃を受けたのは、ここ合浦(ハッポ)だけではなかった。
 巨済島(コジェド)、固城(コソン)、竹林(チュクリム)など、広く慶尚道(キョンサンド)南海沿岸地域一帯に及んでいた。
 高麗(コリョ)側の被害も少なくなかったが、それ以上に賊側の捕虜は全部で三百人余りにものぼった。
 長官以下、国軍の動きは鈍かったものの、末端の守備兵たちの迅速な対応と奮闘で水際で退けたかたちとなった。
 しかし。この事件は、以後、半世紀にわたってこの国を苦しめ、高麗王朝の命運を傾かせるまでに至る、”倭寇(わこう)”とのちに呼ばれる海賊集団のはしりにすぎなかった。(つづく)

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