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多羅倭人伝 :: 《1》

  • posted by: uro
  • date: 2009/08/09 PM 1:59 (日)

 西暦でいうと1350年。この当時、わが国では三つの年号が並び立っていた。北朝を担ぐ幕府方は観応(かんのう)元年、対立する南朝方は正平(しょうへい)五年、そして足利尊氏(あしかが・たかうじ)と不和になった実弟の足利直義(あしかが・ただよし)のグループは貞和(じょうわ)六年とそれぞれ称していた。
 まさに、三者三つ巴の内乱状態が展開されていた。
 朝鮮は高麗(コリョ)王朝、忠定王(チュンチョンワン)二年であった。ところは海東(かいとう)に浮かぶ対馬島(つしまとう)。古来より、朝鮮半島の人々は「テマド」と呼んできた。
 朝鮮半島の南岸から最短距離でわずか十三里(約50キロメートル)。対馬の住人にとっては、日本の九州・博多に行くよりも、富山浦(プサンポ、現・プサン)や巨済島(コジェド)のほうがずっと身近な地勢にある。
 対馬の周辺は豊かな漁場に囲まれており、漁業を生業(なりわい)とする海辺に住む人々には格好の住処となっていた。
 島民たちは、獲った魚介類や海水を煮て作った焼き塩を船で運んで朝鮮半島の人々と交易し日々の米穀類を得てきた。
 そのあたりの対馬の情況は、わが国で『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼び習わしてきた中国の歴史書にも描かれている。(しかしこの歴史書の”名称”は極めて誤解を招く、いいかげんな略称だ。この歴史書は「倭人(わじん)」についてだけ書かれているわけではない。『三国志』のひとつ「魏志(ぎし)」の「東夷伝(とういでん)」のなかの「倭人条(わじんのじょう)」というべきだ。)
 ともあれ。そのなかで、対馬(つしま)は「対馬国」として、現在の日本の領域としては一番はじめに紹介されている。後世の国家観念からみれば”辺境の孤島”でも、少なくとも『三国志』の書かれた時代は重要な交流拠点だったわけだ。
 原文は漢文だが、対馬に関する部分を書き下し文にするとこんな感じ。
 「始めに一海千余里を渡る。対馬国に至る。その大官を卑狗(ヒコ)といい、副を卑奴母離(ヒナモリ)という。居る所、絶島、方は四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(みち)の如し。千余戸あり。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り南北に市糴(してき)す。」(「卑狗」や「卑奴母離」は発音に漢字を当てたもの。単なる当て字だ。当時の行政官の名称である。島を治めていた「長官」「副長官」のことだ。「南北に市糴す」は、あちらこちらに船を出して手広く交易することだ。
 三世紀ごろの対馬の様子は、今から1800年前の東アジア世界を解説したガイドブック『三国志』のひとつ、「魏志(ぎし)」のなかの「東夷伝(とういでん)・倭人条(わじんのじょう)」の記述がリアルに伝えてくれている。確かに、この話の舞台となる中世東アジアの対馬を取り巻く周辺情勢は、列島側に統一国家の生まれる前の古代とは事情が違う。しかし、交易や漁業を生業とした対馬の人々のライフスタイルという目線で見れば基本的にそう大きな変化はなかったろう。
 ところが。十四世紀中ごろの東アジアという大きな視点で見ると、列島側に統一国家のなかった時代とは明らかに事情が異なってきていた。
 この当時、日本の本土(本州と言い換えてもいい)は、南北朝動乱のまっただ中。九州からも米は届かず、唯一頼りとしてきた隣国、高麗(こうらい)との交易も、前世紀のモンゴルの襲来以降、途絶えがちになっていた。
 餓えた島民たちは武装化し、眼の前にある隣国の豊かな租米備蓄庫に目をつけた土豪に率いられ、さまざまな海賊行為を行うようになっていった。
 彼らは、モンゴルの征服王朝、元朝に長く支配、収奪され弱体化した高麗国や反乱で政情不安定な中国沿岸部の地域を荒らしまわりだした。今日の歴史研究では「前期倭寇」と名づけている。
 略奪目標は、食料や兵糧となる米穀類、そして製塩業で必要とした多くの奴隷の労働力、あるいは転売目的の生身の人間だった。
 彼ら土豪を統制する立場は対馬国守護である少弐(しょうに)氏、及びその代官である宗(そう)氏だ。しかしこの当時、まだ宗氏は対馬の人々にとって”よそもの”であり、九州本土の筑前国(ちくぜんのくに)・宗像(むなかた)が本拠地だった。九州本土から見れば、対馬は遠く、目が届きにくかったろう。しかも、各地の勢力同様、南北朝動乱に否応なく巻き込まれていた。

 対馬島。朝鮮海峡に面した西岸中央部に深く入り組んだ内海(うちうみ)がある。浅茅湾(あそうわん)という。典型的なリアス式海岸が続く沿岸は船隠し(ふなかくし)に絶好の地勢だ。そのうちの、ある入り江に、船を自在に操って船頭(ふなど)たちが三々五々集まってきていた。
 「船持ちは、軍船として使える持ち船をすべて集めよッ!」
 「船頭衆がたばねる浦衆も水手(かこ)として動員させるのじゃ!」
 「ほかの者どもは物見衆(ものみしゅう)が戻るまで待機!」
 兜をかぶり、軽量の水軍鎧で武装した将たちが、周りに集まってきた船乗りたちに向かって指示を発し続けている。
 出陣前の盃(さかずき)を飲み干した男たちの一群。なかには、酒のせいか、ひと仕事前の緊張感からか、テンションの高い輩もいる。
 武装した戦闘部隊のなかにも、水手(かこ)たちのなかにも、まだあどけなさの残る少年が混じっている。船大工の遺児、太郎もそこに徴集(ちょうしゅう)されていた。
 潮風や陽に焼けた頭髪は赤茶けている。青班(あおはん)の着衣からのぞく素肌は赤銅色だ。肩から二の腕、手の甲にかけて龍の子(たつのこ)模様の入墨(いれずみ)が見える。小柄ながら、すっかり海の男だ。
 「なんじゃい若造、ふるえてるんかい?」
 近くにいる何人かの男のうちの一人がからかう。
 「武者震いじゃ!」と太郎は強がる。
 「おめえ、いくつだ?」
 「十五になる」
 「武家なら元服(げんぷく)。おとなだな」と水手仲間が応じた。
 「ケッ! そいつはまだおなごを知らねえからおとなじゃねえよ」
 「うるせーッ! 船を漕(こ)がせたらお前に負けん!」太郎が吠える。
 「まあな」と別の男が言い、「海東(かいとう)屈指の船大工、彦次郎(ひこじろう)の血をひくせがれじゃ」
 「ケッ! 」と先ほどから太郎を子ども扱いしている男が挑発する。「たいそうに。まだ、こいつはガキよ。俺様が高麗(こうらい)で適当なおなごでも攫(さら)って来てやるけん。それで筆おろしでもすればよか」
 太郎はその男に掴(つか)みかかっていた。
 「やめろッ! その有り余った力はコクリにぶつけるまでとっとけ!」コクリとは”高麗人”を意味する蔑称だ。「蒙古襲来」のとき、蒙古侵略軍を「ムクリ」、それに協力させられた高麗軍を「コクリ」と云った。セットにして「ムクリ、コクリ」と呼んだそうだ。現代でも九州北部辺りでは聞かれるところもある。
 「まったくこいつは血の気が多くて手に負えぬ」
 「おい。お前も子供相手にいい加減にしろ!」
 「仲間内で喧嘩(けんか)やってる場合かッ!」
 その場に居合わせた水手(かこ)や浦衆たちが集まってきた。取っ組み合う太郎たちを引き離す。
 「ところでよお…」と一人の水手(かこ)が、風に音を立てて翻っている旗印を見上げて問うた。「なんて書いてあるんだ、これ?」
 「お前、字が読めんのか。これはなあ、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と読むのよ」応じた男は、どうだと言わんばかりに胸を張る。
 「なに?…ハチ…マン…?」
 「早田(そうだ)の殿がおっしゃるにはよお。なんでも、数ある神様のなかで一等頼りになる神様ッてこった」
 早田(そうだ)氏は、浅茅湾(あそうわん)一帯に幡居(ばんきょ)する有力者の一党だ。当時の京都や吉野の公家連中からは「海賊」と蔑まれた海上豪族衆だ。表向きは、この島の守護代官である宗(そう)氏に仕えていた。
 「ほお…」居合わせた浦人(うらびと)の一人が感心し、「でもよお、おれッちの船にはよ、船玉様(ふなだまさま)がちゃんと居なさるからよ。だいじょうぶだあ~ッ!」
 「八幡大菩薩様と船玉様とじゃ格が違うわい!」と水軍鎧を着込んだ男が横から話に割り込んできた。「よいか。いくさを仕掛けるには大義名分ッてやつが要る。なにしろ、ふだんいくさ事と縁のない連中を命のやり取りの修羅場に向かわせるわけじゃからのう」
 「本音は米がほしい」やはり水軍鎧を着込んだ男が話に加わる。どうやら早田党(そうだとう)の手下のようだ。「だから目の前の高麗(こうらい)の連中から奪う。じゃが、それではただの賊扱いよ。そこで、あの蒙古(もうこ)襲来の仕返し、ということにすればだ、名分が立つというものよお!」
 別の手下がそれに応じて吠えた。「なんてったって八幡大菩薩様はあの源平合戦の勝ち組。源氏の氏神様(うじがみさま)じゃ!」
 「でもよお…」と別の男が言う。「島主(とうしゅ)さまは壇ノ浦平家の後裔(こうえい)、とか聞いたぞ…」
 「おお、そりゃあ、俺も死んだ爺さまから聞いたことがある。守護代(しゅごだい)様はあの平知盛(たいらの・とももり)卿の忘れ形見(わすれがたみ)の子孫とか…」彼らが”島主さま”とか、”守護代さま”と呼んでいるのは、宗 経茂(そう・つねしげ)のことである。
 「おいおい、お前ら、めったなことをほざくんじゃねえッ」早田党の手下連中は声をひそめて浦衆たちを睨(にら)みつける。
 「源氏だろうが、平家だろうが、どっちでもよか。要はハクがつきゃあええのよ」
 「どっちでも、ということはなか」と別の手下が反論する。「もとをただせばだ。源氏のご先祖様はシンラ、すなわち新羅(しらぎ)よ。ゆえに白旗が旗印じゃ。一方、平家のほうは、その新羅と対立した百済(くだら)の末裔(すえ)よ。百済は高麗の言葉じゃペクチェと云う。転じて”ぺいけ”、ゆえに”ぺけ”とも云う」
 「そのとおり」と誰かが同意する。「百済ゆかりの紅旗(あかはた)は負け組の平家の旗じゃから縁起が悪い。出陣の際の旗印はすべて白地にせよ、という早田(そうだ)の殿のお下知(げち)じゃ」
 さきほど水手(かこ)仲間に挑発されて取っ組み合いのひと騒動を起こした少年も、少し落ち着いたようだ。
 内輪もめに仲裁に入った先輩格の浦人が少年に問いかけた。
 「タロー。お前の守り神はナンだ?」
 「これだ…」少年は道具箱から大事そうに細長い革袋を取り出した。中身は鑿(のみ)だ。それも、船大工が使う大鑿だ。
 「彦次郎の形見(かたみ)か。腕の良い船大工だったなあ…」そう言って、その男は手を合わせた。
 「でもよ。俺ッちの船玉様のほうが御利益(ごりやく)があるぜ」そばに居た浦人が言う。
 「恋女房の髪の毛でござんすよ~ッ!」
 「とにかく神のご加護を!」
 入り江の船隠しでは、とりとめのない、浦衆たちのやりとりが続いていた。(つづく)

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