対馬(つしま)・佐護(さご)の”観音まいり”がらみでの騒動については、事の真相が明らかになるにつれ、その反響は佐護ばかりにとどまらなかった。島全体の問題になっていた。以前からくすぶっていた島民たちと島内に居座り続ける南朝亡命政権との確執は表面化していった。
浦々(うらうら)の寄りあいでは亡命政権への不満の数々が噴出した。
「いつまで連中の面倒を見なきゃならないんだ! 」
「帰れ、帰れ、ヤマトへ帰れ! 」
「いくら島主さまの主筋に当たるとはいえ、昔の話だろ!? 連中は俺たちが食わせてやってるようなもんじゃ」
「侍やめて漁師や船乗りにでもなればええのよ。郷に入れば郷に従えじゃ! 」
「そうじゃ、そうじゃ! この島は俺たちの島じゃ。連中の島じゃねえ! 」
「俺たちが負担してるんは日々の食料だけじゃねえ。献上品も魚やアワビ、サザエ、海藻に…あとなんだ? 」
「最近じゃ白珠(はくじゅ)に目をつけやがってよお」
”白珠”とは対馬特産の真珠である。当時、筑紫(つくし)といわれた九州本土では高値で取引された貴重品で、京都の公家や武家連中の憧れの的だった。
「どうやら武器を調達する元手(もとで)にしようともくろんでおるらしいが…」
「探題(たんだい)の軍勢が上陸しやすい各浦の塩浜(しおはま)はつぶして逆茂木(さかもぎ)を作れ、とかぬかしたバカ大将もいたぜ」
”探題”とは九州探題のこと。京都の北朝をかつぐ足利幕府(当時はすでに三代将軍・足利義満(あしかが・よしみつ)の治世であった。)が、九州の武士たちを統括させるために派遣している出先機関であり、その総責任者たる役職である。ときの探題は今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)。本名は貞世(さだよ)。幕府要人の一人で、京都では治安維持を担当する長官や武家の所領紛争などを裁く長官を歴任したやり手だ。九州の地に派遣されて以来すでに十数年以上たっていたが、一貫して幕府のために獅子奮迅の活躍を見せていた。博多及び太宰府(だざいふ)攻略を皮切りに、九州南朝勢を再起不能寸前にまで圧倒していた。
「まっこと、バカじゃ! 塩は俺たちの命。塩が無けりゃあ醤(ひしお)も干物も漬物もできやしねえ」
「そんなこともわからんのか! あの陸賊(りくぞく)どもは」
対馬の島民たちは、ふだんは、漁業や製塩業、海上運送などに携わる人々がほとんどだ。また同時に、対馬の宗(そう)氏に仕える対馬水軍の末端を担ってもいた。とりわけ若い衆は血の気の多い輩も多い。加えて、陸の支配者に対する反感も伝統的にある。早田太郎(そうだ・たろう)たちと刃傷沙汰を起こした例の侍たちは、幕府方の探題軍に押しまくられて筑紫(つくし・九州本土)などからほうほうの態で逃れてきた敗残勢力である。にもかからわず、島内での態度が横柄で、浦衆たちを「海賊」とか「島夷(しまえびす)」とか蔑(さげす)んでいた。そんな連中を島民たちが快く受け入れていたとはいえない。
とくに、塩は古来より対馬の経済を支える重要な産物のひとつであった。14世紀(1300年代)初め、少弐(しょうに)氏が対馬国守護(しゅご)を兼任した頃。塩は年貢として上納されていたほど重要な品目だった。九州本土にいる少弐氏の本家も、農耕に適した土地がほとんどない対馬の場合、塩以外のもので年貢を納めさせることなどできないことぐらいはわかっていた。
ときの島主、宗 澄茂(そう・すみしげ)としても、佐護(さご)の一件については、非は島外の侍たちにあることは十分承知していた。しかし。
その侍たちのなかにかつての主筋に当たる少弐氏の旧家臣が混じっている手前、毅然(きぜん)たる態度をとれないでいた。心中では、島民たちの不満がいつどういうかたちで爆発するかもしれない、と案じていたのだ。
ところがそんなおり。
宗 澄茂の息子の奥方が出産した。澄茂にとっては初孫の誕生だった。島主といえども人の子だ。うれしくないはずはない。
「島内で祝うべし! 」
と、これ幸いに、超法規的措置でもって、すべての罪人を赦免(しゃめん)する口実に使った。
もちろん、天道山(てんどうさん)にこもっている早田太郎を念頭に置いての、宗澄茂の措置だった。ただ、対馬島主たる立場とすれば、少弐氏との長年にわたる相互関係も配慮しなければならなかった。早田太郎(そうだ・たろう)の処遇については、澄茂(すみしげ)は早田党の首脳部と談合(だんごう)の末、ひそかに島外へ彼を逃すことに決した。
佐護(さご)の天道山(てんどうさん)の麓(ふもと)にある某所。
対馬島主、宗 澄茂(そう・すみしげ)および早田党(そうだとう)首脳部の意を受けた使者が早田太郎と密会していた。
「ひさしぶりだな、ジンベイ」
早田太郎(そうだ・たろう)はその使者に言った。「さっそく聞こうか。お館(やかた)様からのご指示を」
「しばらく南の方へでも行ってこい、との仰せでした」
”ジンベイ”と呼ばれた使者はそう答えた。
彼は、早田館(そうだかん)に仕える高麗人(こうらいじん)の通訳だった男だ。本名は柳 仁平(リュ・イピョン)。対馬では通称”ジンベイ”と名乗っていた。最近は外交顧問のような役目をも果たすようになっていた。
「南の方? …」太郎はいぶかしげな表情。
「リウキウ、です」とジンベイは答えた。漢字では「琉球」と表記する。
「リウキウ? …」と太郎。
「そうです」とジンベイ。
「国の名前か? どこにあるのだ、それは? 」と太郎は重ねて問うた。
「若殿(わかとの)は、鬼界が島(きかいがしま)はご存じでしょう? 」とジンベイ。
「ああ、火薬の原料になる硫黄(いおう)がワンサカ採れる島じゃろう。その近くか? 」と太郎。
「そのもっとずっと南のほうにあるのが、リウキウです」とジンベイは答えた。
「化け物でも住んでるところか? …」と太郎は疑心暗鬼だ。
「御冗談を」とジンベイは笑い飛ばし、「一年中雪が降らぬあたたかな良いところです。私たちと同じ人間が支配する国です。国とは言っても今は三つほどの勢力に分かれてはいますが」
「ははあ、最近、高麗朝廷に使節を送り込んできたという勢力か? 」と太郎。
「さすが若殿、ご明察です。転売されてきた高麗人の被虜人(ひりょにん)を無事送還する代わりに、互いに利益となる交易を提唱しております」とジンベイ。
「しかし、高麗人の被虜人(ひりょにん)がそんなところまで売り飛ばされていっておるとはのう…。俺たちの知っておるあの少年も、ひょっとしたらリウキウあたりで生きておるやも知れぬな、ジンベイ」
太郎は金 在彦(キム・ジェオン)のことを思い起こしたようだった。
ジンベイはうなずくと、それには答えず、本筋の話を続けた。
「若殿。今はご自分の身一つのことをご案じください」
「はは! そのとおりじゃ。俺は今や追われる身」と太郎はおどける。「して、そのリウキウ、とやらに身を隠すわけか? …」
「リウキウは異域(いいき)です。日の本(ひのもと)ではありません。若殿を追っておる連中も手が出せませぬ」とジンベイは続け、「そのリウキウにあるナハという港町に、早田(そうだ)のお館様の、昔のお知り合いが拠点を持っています」
「ナハ? …して、父上の知り合いとはどんな御仁(ごじん)じゃ? 」と太郎はたずねた。
「高麗(こうらい)と南蛮(なんばん)諸国の間を往来しておる商人です。もとは漢人のようですが、今はリウキウ人としてふるまっています。いろいろとワケありの御仁で…」とジンベイ。
「ワケありか…まあ、父上の知り合いにはそういう御仁が多い。ワッハッハ! 」と太郎。
「かつては海賊仕事もやっていた御仁ですが、今は海を股にかける大商人とか」
とジンベイは言って、二通の書状を懐(ふところ)から大事そうに取り出すと恭(うやうや)しく太郎に手渡した。
「これは? 」と太郎。
「こちらは、お館様から若殿への書状。いま一つは、かのワケありの御仁への紹介状です。のちほどじっくりと目を通してください」とジンベイは言った。
「ときに」とジンベイは続けながら、それまでのピンと張りつめた表情とはまるで異なる雰囲気になって、
「奇特(きとく)にも、若殿について行きたいというおなごがおるそうじゃありませんか? 」
太郎を天道山(てんどうさん)にかくまってくれた、佐護(さご)の娘のことだった。
彼女は佐護(さご)の長老に相談して、太郎の日々の食べものなどを届けたり、身の回りの世話をしにひそかに通っていたのだった。その間に二人は好い仲になっていたらしい。何事にも情報通のジンベイはすでに知っていた。
「道中は長いし、道連れはいたほうがよいですから」
そうジンベイは、意表を突かれて赤面している太郎の表情を、いかにも楽しそうにうかがいながら、含み笑いをしていた。
その翌朝のこと。まだ東の空が白み始めた頃だった。
佐護(さご)の港の沖合。
この海域では見慣れない大型の船が一隻、碇泊(ていはく)していた。
どうやら富山浦(プサンポ、現・プサン)の方角から朝鮮海峡を越えてやってきたようだが、高麗船ではない。倭船でもなく、明国のジャンク船でもない。
全体の雰囲気からして東アジア圏の船舶ではなさそうだった。
…と、いずこからか、朝もやのなかを数艘の軽疾船(けいしつせん)が近づいて行った。軽疾船とは小型の武装船だ。そのうちの一艘が大船に横付けした。
ややあって、二つの人影がその大船に引き上げられたようだった。
錨(いかり)が引き上げられると、大船は静かに動き出した。
軽疾船は大船に寄り添うように先導していたが、浅茅湾(あそうわん)の入り口近くにさしかかると動きを止めた。
大船のほうは、大きな背びれを思わせる帆を開いて速度を上げた。
軽疾船は、南のほうへと進む大船のほうを見送るようにして、しばらくの間とどまっていた。(つづく)


