「どこに…連れて…行かれるの?…」
在彦(ジェオン)少年が泣きじゃくりながら問うた。
「さあなあ…」その青年は首をひねって、「奴らの恰好や話す言葉からみて倭人(わじん)だな。たぶん」
「じゃあ、テマドかよ? 」
青年の向こう側に座っているらしい人影が質した。
青年はその声のほうを向いてうなずいた。
テマドとは、対馬島を朝鮮語で発音した呼び方だ。古来より朝鮮半島の人々はその島をそう呼んでいた。ヤマト政権が「日本」という国号を名乗るよりもずっと昔から。
対馬島は朝鮮半島から見て海の東に位置する。ほぼ南北に細長い島である。最短ルートの富山浦(プサンポ・現プサン)から鰐浦(わにうら)まで、今日の単位で言うと約50kmしか離れていない。一方、対馬島から九州はその倍以上離れている。当時でも、同じ日本の領域とはいえ、京都の殿上人などからは、まさしく鬼が住む”化外(けがい)の地”という感覚で見ていたろう。
ジェオン少年は、ともかく同胞が周りにたくさんいるんだ、という安堵感(あんどかん)からか、昨晩の寝不足と疲れもあって、じぶんの膝を抱えたまま眠りこけていった。
彼は夢を見た。母親が賊たちに惨殺(ざんさつ)される場面の繰り返しだった。
「…おい、起きろ…着いたようだぞ…」
ジェオン少年は、隣りに居合わせた例の青年に肩をゆすられて目が覚めた。背中を流れる汗がいや~な感じがした。
「うなされていたようだな…」
そう言って青年は思いやるように言うと、ジェオン少年の肩をぽんと叩いた。
彼らは船底から甲板に順次引き出された。誰もが久々の陽の光に目をしょぼつかせていた。
海がきらきらと光っていた。ほとんど暗闇だった船底の世界に慣れた目にはまばゆいほどだった。
入り江の周りはどこも濃い緑の森林におおわれた山々が、海の中からそびえたっているかのように見えた。海岸線は複雑怪奇で、その先がいったいどういう風になっているのか、見当もつかなかった。
対馬とは目と鼻の先の巨済島(コジェド)生まれで、島育ちのジェオン少年から見ても、その景観は異様なものだった。
「テマドなのかい。ここ? …」ジェオン少年は例の青年に問いかけた。
「たぶんな。俺も実際に来たことがあるわけではないが」と青年は応じた。
ジェオン少年とて来たことはない。しかしおぼろげながらではあるが記憶のなかにはあった。
生まれ故郷の巨済島(コジェド)にいる頃のこと。天気の良い日だった。あれがテマドだ、と父親から教えられたことがあった。
すでに、高麗国ではその島は”倭賊の根城”というイメージが強かった。だから、ジェオン少年にとって、濃紺の海の彼方に浮かぶ、その黒い島影は不気味に見えたものだった。
それにしても、ふだん見慣れている遠浅の浜辺とか、緑の田園というものが見当たらない。前の海面は比較的穏やかなので、風待ちの寄港地や船隠しには適しているだろうな、と例の青年が言った。
「こりゃあ、たいへんなところだな…」
青年はあらためて周囲を見渡し、誰にともなくつぶやいていた。
この青年は租米運搬船の水夫(かこ)だった。都の開京(ケギョン)に租米を運ぶ途中、海賊船に襲われ、船ごと乗っ取られたそうだ。
船にはかなり詳しい。こんな境遇にあっても、船への興味は旺盛のようだ。あの船はどうだとかこうだとかいろいろ解説してくれたものだ。
ジェオン少年たちが乗せられてきた荷船のほかにも、さまざまな船舶が碇泊(ていはく)していた。人や物資を運ぶ大型船以外は、十人乗り、二十人乗りの小ぶりの船が多い。
どれも堅牢な作りで、両側の舷(げん)に垣立て(かきだて)を並べ立てた軍船に仕立ててあるという。
舳先(へさき)や帆柱などには細長い白地の旗幟(きし)が翻っていた。旗には”八(パル)”という漢字ではじまる五つの文字が黒々と染め入れてあった。その意味するところはその頃のジェオン少年にも、例の水夫(かこ)の青年にも、わからなかったが。
彼らは渡し板で桟橋(さんばし)に降ろされた。
その港は、高麗国から掠致(りゃくち)されてきた被虜人(ひりょにん)であふれそうだった。
ジェオン少年は、その人々のなかに、もしかして離れ離れになった父親や弟も囚われているんじゃないか、と探してみた。しかし身動きの取れないなかでは、じぶんの身の周りに気を配るのが精いっぱいだった。父さん! …ヨンハ! …と藁(わら)をもつかむ思いだったジェオン少年にとっては、同じ年頃のおじさんや子供のすべてが、一瞬、父親や弟に見えたりしたものだった。だが、それは彼の眼の錯覚に過ぎないことを思い知らされた。その一瞬後には、彼らは縁もゆかりもない、ただのおじさんや子供でしかなかった。
被虜人(ひりょにん)の集団は、男女に分けられた後、さらに仕分けされた。
後で知ったところでは、「対馬残留組」と「転売組」とに分けていたらしい。
ジェオン少年は、水夫(かこ)の青年とともに「残留組」に仕分けされた。多少でも縁ができた人物がいっしょにいることは、その時のジェオン少年にとっては心強かったものだ。
陽射しが湾内の海面を朱色に染め始めた。
「高麗(コリョ)はあっちかな…? 」
ジェオン少年は夕陽のほうをまぶしそうに指差した。
青年はうなずくと、思い出したように、俺の名前は「崔 淳(チェ・スン)」という。お前はなんという名だと問うた。ジェオンが名乗ると、縁があったらまた会おう。俺は生きて母国の土を踏む。お前もあきらめるなよ、というようなことを言った。
彼らが船から降ろされたところは、対馬島の西側。つまり朝鮮海峡側に大きく口をあけたような、内海の内側だった。
外海と内海の境目は、誰が名付けたか”大口の瀬戸(おおぐちのせと)”という。まさしくそのまんまの名前だ。
その港は、外海からほんの少し入ったところだった。内海全体は、そこからさらにずっと東のほうに深く深く複雑に入り込んでいるようだった。その内海全体を浅茅湾(あそうわん)と、その島の人々は呼んでいた。そこは外海と違って波も穏やかなので、多くの船団を収容しておくには絶好の地勢のようだ。
しかし、内陸にしか暮らしたことのない人間にはまさしく”異界”そのものだろう。
山の斜面を削ってこしらえた段々畑のほかは、農耕に適した場所はほとんどないに等しい。農耕民には非常に厳しい環境だ。
一方、内海、外海ともに漁場には恵まれている。見方を変えれば、海を生活や仕事の場とする人々にとっては格好の住処(すみか)だろう。集落は背後の山岳地帯と海沿いの狭い土地の間に身を寄せ合うようにかたまっていた。
家々は石を屋根に乗っけたものが多かった。とくに風が強く吹く地域には石屋根の家屋が多い。
見晴らしの良さそうなところには、高い櫓(やぐら)を備えた砦(とりで)が築いてあった。その周りには、石垣の上に土着の豪族たちの居館がある。砦の真下あたりには彼らの船隠し(ふなかくし)があるのだろう。垣立て(かきだて)を並べ立てた軍船や偵察用の物見船(ものみぶね)などがひんぱんに出入りしていた。
当時、この島の最高権力者は宗氏(そうし)であった。宗氏は、それ以前、九州は筑前(ちくぜん)国の守護(しゅご)、少弐氏(しょうにし)の代官という立場だ。日本では、ときは南北朝内乱の真っただ中。そのなかで、宗氏本家は、南朝宮方の没落ぶりを見極め、北朝を擁する足利幕府方に属するようになっていた。島主は、宗伊賀守澄茂(そう・いがのかみ・すみしげ)という人物だった。しかし、その人物とて島に常住しているわけではなかった。ふだんは筑前の国、宗像(むなかた)にある所領に住み、対馬産の塩や海産物などを各地の豪族衆から年貢として送らせていた。実質的に島民を使役し、治めていたのは、島内各地の豪族衆だった。
高麗国から掠致(りゃくち)されてきた人々が奴婢(ぬひ)として売られて行ったのは、だいたいそういう豪族たちの館であった。
ジェオン少年もまた、”人商人(ひとあきびと)”と呼ばれた人身売買のブローカーを介して、ある土豪の館に売られたのだった。彼が買われた館の主は早田(そうだ)氏といって、対馬島中央部の浅茅湾(あそうわん)に面した地域に幡居(ばんきょ)する海の豪族、つまりは海賊衆だった。
早田氏(そうだし)が本拠とする土寄(つちより)三か村というところは、この辺りでは比較的集落が固まっていた。その一族はこの一帯の浦人(うらびと)を束ねていた有力者だった。
ジェオン少年は、まだ一人前の働きは期待できないからと、早田氏(そうだし)の居館ではなく、その傘下にある浦人のもとへ使用人として出向させられた。その浦人は、無口で、いかにも気難しそうな独居老人だった。
その老人の家、といっても小屋で住み込みながら、漁師仕事の手伝いをはじめ、薪(たきぎ)集め、炊事、水汲み、洗濯などあらゆる雑用に使役されることになった。
同じく拉致された崔淳(チェ・スン)と名乗る青年は、多くの被虜人(ひりょにん)とともに、早田氏(そうだし)の居館にある奴婢小屋(ぬひごや)のいずれかに配されたようだった。(つづく)
『あの頃のサミタラ』のエントリ


