「お前たちは先に裏門から出ろッ! 玉峰山(オクボンサン)に行け」
父親は、妻と二人の息子を振り返ると、そう言った。
在彦(ジェオン)少年が、訴えるような眼でその服を引っ張ると、あとからすぐ追いつくから、と諭(さと)した。
「母さんと英学(ヨンハ)を頼むぞッ! 」
それが、ジェオン少年が聞いた父親の最後の言葉になった。
父親は、町の男衆とともに駈け出して行った。
躊躇(ちゅうちょ)している間はなかった。ジェオン少年は弟の手をにぎりしめると、母親や町の人々とまじりあって城邑(ソンウプ)の裏門に向かって走った。
「にいちゃん、どうして? どうして逃げるの…」弟はまだ事情が飲み込めずに訴えるような眼で質す。
「鬼だッ! 異国の鬼だ! 」
ジェオン少年が、弟に何事かを口に出す前に、名前も知らない住民が追い抜きざまにそう叫ぶ。そしてどっと倒れた。背中に矢羽の付いた長い矢が突き刺さっていた。白い衣服を、見る見る鮮血の赤が染めていった。男はすでにこと切れていた。ジェオン少年は目の前で人が殺され死んでいく様(さま)をはじめてみて茫然と立ちすくんでしまった。
前方から母親の叫ぶ声が聞こえた。ジェオン少年は、はっと我(われ)に返る。弟の手をしっかりと握りしめると母の姿のほうへひたすら走った。
現在の感覚で言うとおよそ1500m先に山が見えていた。
「もうひと息よ! あの山まで…」
母親の声に励まされ走りぬいた。とにかく山の懐にたどりつけば何とかなる…ジェオン少年は子供ながらにそう信じたかった。
気がつけば、母親も弟もじぶんも着の身着のままだ。手荷物さえ持ち出す暇もなかったのだ。
山の木々の間から西の方角を見やった。城邑(ソンウプ)のあちらこちらから煙が立ち昇っているのが見えた。賊軍が侵入して、官営、民家、店舗の別なく掠奪され、その後放火されているのだろう。
ジェオン少年たちは何人か身を隠すことができそうな岩の洞窟を見つけた。
太陽の位置から見て、とっくに正午は過ぎているはずだ。のどがひりひりする。身の軽い子供とはいえ、からだのあちこちが痛む。
「のど、渇いたよう」弟が言った。ジェオン少年自身は恐怖で空腹さえ忘れていた。
「そうね。朝から何も食べていないものね…」と母親。「待ってて。木の実でも採ってくるから…」
ジェオン少年は母の衣服をつかんで首を横に振る。
「おいらは我慢する。英学(ヨンハ)も我慢できるよな? 夜まで待とうよ」
「いやだッ! のど渇いた。待てないッ」弟は駄々(だだ)をこねた。
「いい、ここでじっとしていてね」母親は兄弟に噛んで含めるように言うと洞窟を出て行った。
<待って、母さん…>そう、ジェオン少年が叫ぶ暇(いとま)もなかった。
どれほどたったろうか。
「かあちゃん、おそいね…」とヨンハがつぶやいた。
もうすぐ戻ってくるよ、とジェオン少年は言い、「かあちゃんはあわて者だからな。どこかで転んで足でもくじいてるのかも…」
しばらくヨンハも黙りこんで、沈黙のときが流れた。
「いいか、ヨンハ。お前はここにいろ。ここを離れるんじゃないぞ」とジェオン少年は意を決したように弟に言い放った。
「いやだッ! 兄ちゃん、ここにいてよ。もうわがまま言わないから…」とヨンハ。
「だいじょうぶ。母ちゃん連れて、すぐ戻るよ」とジェオン。
そんなやり取りの後、ジェオン少年はべそをかく弟の頭をなでると、洞窟を出て母親の向かったほうに急いだ。
どれほど進んだろうか。ジェオン少年は山中の下のほうからざわざわと人が話す気配を察した。言葉はわからないが、何か言い争ってでもいるように感じた。
女の声がした。高麗のことばだった。茂みを抜けると、母親と見知らぬ二人の男がいた。男たちの髪型は北方の蛮族のような妙なものに見えた。頭の両脇だけ残して髪の毛を剃り上げている。紺色の柄物の着衣を着て、腹巻鎧(はらまきよろい)で武装している。高麗の兵隊がつけているものではない。腰に大きな刀を帯びている。見たこともない刀だ。
ジェオン少年は飛び出すと母親の前に立ちはだかった。
「ジェオン、ここにいてはいけない。早く逃げなさいッ! 」
そう母親が叫んだ。男たちは言葉がわからないらしい。彼らは互いに見合ってにやりと笑う。何かを一言二言交わしあっていたがジェオンには何を言っているのかわからない。以前、巨済島(コジェド)にいたころ、魚を売りに来ていた対馬(つしま)の漁師が話していた言葉に似てなくもない。
ひとりの男が抜刀した。そしてジェオンたちとの間を詰めてきた。
母親はジェオン少年をとっさに横に突き飛ばすと、背にしていた太い木にしがみついた。
「殺されたってお前たち鬼どもの慰み者にはなるもんかッ! 」母親はそう声を限りに叫んだ。
もちろん男たちには通じなかったろう。しかし、その拒絶の強い意志は充分伝わったろう。
抜刀していないほうの男が、母親を木の幹から引きはがそうとして背後から抱きついた。母親の着衣が乱れて豊かな乳房があらわになった。男はその乳房をもみしだいて前を向かせようとした。その刹那(せつな)…母親は護身用に懐(ふところ)に隠し持っていたらしい短刀を握りしめると、全体重を預けるようにその男の喉元を刺した。男は鮮血をほとばしらせ、うめきながら倒れた。
抜刀していたほうの男は目をひんむいて何事かを叫んだ。刀を一閃(いっせん)した。母親は絶叫をあげて幹の根元にどうと崩れ落ちた。
ジェオン少年はその一部始終を尻もちをついたままじっと見ていることが精いっぱいだった。
周囲がにわかに騒々しくなってきた。
騒ぎを聞きつけたか、近くにいたらしい賊軍の兵隊たちがその修羅場に何人か寄り集まってきた。
連中は、母親の骸(むくろ)を見つめて茫然自失しているジェオン少年と、陰部(いんぶ)丸見えで死んでいる仲間の骸(むくろ)とをかわるがわる見ていた。そのあと、何事かを話し合っていたようだ。
ジェオン少年は母親の骸(むくろ)に地を這(は)うようにたどりつこうとしたが、からだが思うように動かなかった。そして彼はその賊たちに麓(ふもと)のほうへ連行されていった。
途中、樹林が開けた場所から晋州(チンジュ)の町が見えた。町は煙をあげて燃えていた。避難先の仮住まいだったとはいえ、何年か暮らした町だった。ジェオン少年にはそこでの暮らしそのものが燃え尽きて行ってしまう思いだった。
<とうちゃんは? ヨンハは? …>
そのときのジェオンには彼らの安否を確かめる術(すべ)も力もなかった。彼は、彼にとってこの世で一番大切なものを一日にして失くしてしまった。
山の麓にたどりつくと、たくさんの人々が後ろ手に縛られ、ひと塊(かたま)りに集められていた。町から逃れてきたものの、賊たちの山狩りで捕縛された人々だったろう。
賊たちはほとんど落ち武者のようないでたちだが、先頭を行く騎馬武者は輝くばかりの鎧兜(よろいかぶと)に身を固めている。
とらわれの身になった人々は数珠(じゅず)つなぎにされ、賊軍の兵隊たちにせかされながら、とある海岸に到着した。方角からいって南海(ナムヘ)に面した場所のようだった。おそらくは慶尚道(キョンサンド)のどこかの海岸だ。垣立て(かきだて)をめぐらし、軍船風に仕立てられた荷船が一艘、舫(もや)われていた。
ジェオンたちは、その荷船の底のほうに、まるで荷物のような扱いを受けながら詰め込まれた。明け方ごろだろうか。船が動き出したようだった。
船底らしいということは何となくわかった。周囲は、はじめはほとんど暗闇だった。目が慣れてくるに従い、あたりの雰囲気がよめてきた。思った通り船の底だ。
ジェオンはじぶんがおかれた状況を思い、泣き出してしまった。
「泣くな。泣いてもしょうがない。みな同じ思いだ」
声の主は、すぐそばにいる男だった。ジェオンより年長の青年のようだった。
「だいじょうぶ。殺しはしまい。殺すならとっくにやられてるさ」同じ声だった。(つづく)
『あの頃のサミタラ』のエントリ


