「交易の仕事に携わっておるときに南蛮(なんばん)のことばを覚えましたゆえ」と三郎太(さぶろうた)が言った。
南蛮のことば、とはポルトガル語のことだ。当時はポルトガル語が交易の現場で使われる、いわば公用語となっていた。
「現地の衆が、われわれ日本人をこころよく受け入れてくれるか、多少不安もあります。なにしろ、若(わか)もご存じのように、有馬(ありま)の家来があのような騒動を起こした街ですから」と三郎太はつづけた。
「まあ、関ヶ原で死んでいたと思えば…」と六兵衛(ろくべえ)が言った。「これからは、誰か主君のためではなく、じぶんたち自身のために生きていこうと思います」
そう言って、彦一(ひこいち)のほうをあらためて見た彼らの表情は、晴れやかだった。
「あなた、長庵(ちょうあん)先生がお呼びですよ。わたしもいっしょに来い、ですって…」
彦一が、六兵衛の隠れ家から戻ると、妻の綾香(あやか)がそっと耳打ちした。
奥の間に入ると、丸テーブルを前にした長庵が、チラと二人を見て、着席するよううながした。
彦一が不可解そうな表情をしていると、長庵のほうが先に口を開いた。
「みずくさいのう。おまえたちは」と長庵が言った。
彦一たちがきょとんとしていると、つづけた。
「出張診療代や薬代を、じぶんたちの給金から支払うことなどないんだよ」
長庵はそう言って、若夫婦の顔をのぞきこんだ。
どうやら、六兵衛の診療のことらしかった。内緒で出かけていたつもりだったが、長庵にはバレていたようだ。
「キリシタンだろうが、罪人だろうが、医者にとっては患者は患者だ」ときっぱりと言い、「このわしが、行かせないとでも思ったのか? 」
穏やかな話しぶりだが、彦一にとっては、最後は詰問調に聴こえた。
彦一と綾香は、思わず赤面してうつむいた。
「まあよか。患者もよくなったようじゃし」と長庵。「これからは、診療に関しては、隠し事は無じゃぞ」
彦一が頭を下げると、長庵は、いつもの笑顔を見せて、
「これでもお前たちの父親だぞ、わしは」
翌年の暮れ。幕府は、直轄領だけではなく、全国的にキリシタン禁教令を発布した。
そのまた翌年の慶長(けいちょう)十九年(1614年)には、京都、大坂など全国の主要都市から追放された宣教師たちが、海路で続々と長崎に集められた。
彼らは、国外追放用の船舶が用意されるのを待つあいだ、各地から集まってきた日本人の信徒たちと合流。一大デモンストレーションをおこなった。
後世にまで伝えられることになる「贖罪(しょくざい)の大行列」である。
数千人もの人々が長崎の街なかをねり歩き、諸会堂に参詣(さんけい)しながら行進した。
彦一は、その行列のなかに六兵衛や三郎太の姿を探した。しかしその前に、と彦一は思い直した。ひょっとしてまだ例の長屋に居るかもしれない、と。
彦一は、彼らに、最後になるであろうお別れをしに行こうとしていたのだ。
だが、例の隠れ家はすでに空き部屋になっていた。
彦一が、表通りまで引き返してくると、行列はさらに増えているようだった。また、その行列を見物しに集まってくる住民の数も膨れ上がり、彼は身動きが取れないほどだった。
そんな騒動があってからしばらくたったある日、復活したマカオ定期船が長崎の港にやってきた。
「たいへんな騒ぎだったな。このあいだは」と長庵が言った。
「なにしろ、宣教師や有力門徒たちが九州だけじゃなく、京、大坂、堺からも集められたというからのう」
「彼らは、これからどうなるのでしょう? 」と彦一が不安げにたずねる。彼の胸中には、世話になった六兵衛や三郎太たちの顔が一人一人浮かんでいたのだ。
「うわさでは、ころばない者は海外へ追放されるらしい。あの高山右近(たかやま・うこん)でさえ今や罪人同然じゃ」
長庵は、港かいわいで仕入れてきた話をしてくれた。
彦一は、自らも、おりを見て港へ行って見た。
湾内には、マカオ定期船の全盛期を思わせるおびただしい船舶がひしめいていた。
しかし、彦一の眼には、ほとんどの船は、かつてに比べると、老朽化して見えた。
奉行配下の侍たちが指揮をとって、それらの船に大勢の人たちを押しこんでいる。まるで流人の扱いだ。
「マカオに行く船はどれですか? 」
彦一は、勇気を出して、奉行所の役人らしき侍にたずねてみた。
その男は、まるで不審者を観る目つきで、彦一の身なりを見ると逆に誰何(すいか)した。
「町医者だが…」彦一はそう答えると、その男の手に銀子(ぎんす)一枚を握らせた。その役人が語るところによると、マカオ行きの船は急きょ福田浦(ふくだうら)のほうへ移動させられたという。どうやらそちらから出帆(しゅっぱん)するらしい。
<福田浦か! >
彦一は心のなかで舌打ちをすると、顔見知りの船頭(ふなど)の顔を探して港を奔走した。
”福田浦”というのは、長崎港から北西に約一里ほど離れた外海に面したところにある港だ。長崎が開港する以前に、マカオ定期船で賑わったところだ。
彦一は、やっと見つけた一人の船頭に頼み込んで、小船を福田浦に廻してもらった。
しかし、マカオ行きの船はすでに出帆してしまっていた。
伊王島(いおうじま)の脇を、三隻の大きな黒船が隊列を組んで抜けていくさまがかろうじて見えた。
彦一は、その船影が見えなくなってからも、しばらくその場にじっとたたずんでいた。
その帰りがけに、彼は取引先であり、妻の実家でもある薬種問屋、長寿堂(ちょうじゅどう)に立ち寄った。
ちょうど顔見知りの男が店に来ていた。大坂・道修町(どしょうまち)の薬商である。漢方薬材の買い付けに来たようだ。
「いよいよ始まりまっせ! 大戦(おおいく)さが」
その男は彦一の顔を見て、興奮気味にそう言い放った。
「えっ、いくさ!? どこでですか? 」と彦一は質(ただ)す。
「大坂(おおざか)でんがな! 」男は言った。
のちに”大坂の陣”と呼ばれることになるその戦(いくさ)は足掛け二年に及んだ。実際の戦闘は講和の期間をはさんで二度行われたので、”大坂・冬の陣””大坂・夏の陣”と称されるようになる。
結局、大坂城の陥落、豊臣(とよとみ)方の敗北で幕を閉じた。淀の方と豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)は落城寸前に自害したと伝えられる。
その翌年の五月、新緑の候。長崎湾を見下ろすある墓地に彦一と妻の綾香がいた。
彦一の母親が亡くなってちょうど十年が経っていた。彦一の母の最期(さいご)を看取り、弔ってくれた六兵衛や三郎太、それにかつての傳役(もりやく)だった宗玄(そうげん)も、すでにこの世にはいない。
<でも、今の私には妻がいる、綾香がいる>
彦一はそう心に念じて隣りにいる女性の顔を見つめた。
「対馬(つしま)だったよね? あなたのふるさとは」綾香が言った。
彦一は静かにうなずくと、
「鰐浦(わにうら)という港はまわりを山々が取り囲んでいるんだが」と語りはじめた。
「その山々は、ちょうど今頃、花で真っ白になるんだ…」
「ふ~ん、冬でもないのに真っ白に? 」と綾香が驚く。
「そうだ。山がまるで雪をかぶったように真っ白に染まるんだ」と彦一が応じる。
「何という花なの? 」と綾香が不思議そうな顔でたずねる。
「ひとつばたご、という。草花じゃなくて樹木だな」と彦一。
鰐浦は、対馬の上対馬(かみつしま)の最北端に位置する港だ。
古来より朝鮮半島と往来する船舶の発着地であり、海の関所(せきしょ)が置かれた要衝(ようしょう)の地でもあった。
港を囲むようにそそり立つ周辺の山々はヒトツバタゴの自生地だ。
その花が満開になる景観は、彦一にとっては、亡くなった母親との思い出のひとこまとして今も記憶の奥に残っていた。
彦一が、何気なく目を移した坂道の向こうから、ひとりの侍風の若者が登ってくるのが見えた。
彦一たちの姿を認めると、その若者は一度立ち止まって、ていねいに一礼した。(つづく)
『玄長秘話(げんちょう・ひわ)』のエントリ


