「若(わか)…いまは、誰はばかることなく、こう呼んでも差し支えありませぬな…」
宗玄(そうげん)は、床(とこ)から起き上がろうとして彦一(ひこいち)にそのままでいいと言われ、再び床にふせった。
「このあいだは、若の祝言(しゅうげん)に招かれ感無量でした」と彼はつづけた。
「綾香(あやか)さま、でしたな。やさしげな娘御じゃ。ご立派に成長された若をみて、宗玄、もはや思い残すこと、なにもございませぬ…」
「何を弱気な…」と彦一は応じ、「宗玄にはもっと生きてもらいたい。そのほうには苦労ばかりかけた。そのぶん、これからは恩返しがしたい」
宗玄は、その言葉に優しいまなざしでうなずいていたが、なにか意を決したように、
「これは、もしもの話としてお聞きくだされ…」と言い、彦一が、もし対馬(つしま)に戻る気があるならば、と語りはじめた。
「いや、もどらぬ。もどりたくもないッ! 」と彦一。
そういう彦一を制して、宗玄はつづけて言った。
「もしもです。対馬に帰るような日が来るやもしれませぬ。そのときは、自らの出自を決して明かしてはなりませぬ。このこと、この老いぼれの遺言(ゆいごん)とお心得下され…」
そこまで言うと、息苦しそうに老人はせき込んだ。
「わかった…」と彦一は応じ、「わかったから…からだに障(さわ)るから、少し話すのをよせ」
宗玄は、慈愛(じあい)のこもったまなざしで彦一を見つめて、さらに言った。
「これは、あなたさまの、本当のお父上からは、他言無用と口止めされてきたことではありますが…」と語った。
その話の趣旨(しゅし)は、宗玄が対馬を追われた真相についてだった。
かつて、宗玄というこの老人は、対馬島主の侍医(じい)であり、また同時に彦一の傅役(もりやく)でもあった。
表向きには、宗玄が、彦一とその母親の対馬追放に異をとなえ、対馬島主、宗 義智(そう・よしとし)の勘気(かんき)にふれ、ともに追放されたことになっていた。
かつて関ヶ原合戦で、小西行長(こにし・ゆきなが)は、石田三成(いしだ・みつなり)方、いわゆる西軍方に味方した。宗 義智にとって小西行長は嫁の父親だ。義智自身は関ヶ原の合戦には参加していない。第一、東西両勢力の確執(かくしつ)に積極的にかかわっていない。しかし客観的に見れば西軍方とみられたであろう。徳川家康(とくがわ・いえやす)率いる東軍が勝利し、天下の趨勢(すうせい)が決まった以上、その敵対勢力の一部とみなされても無理はなかった。
そして、江戸の新政権に忠誠を誓う証(あか)しとして、宗 義智は苦渋(くじゅう)の決断を強いられることになった。関ヶ原合戦の戦後処理をめぐる政治的な事情で、自らの正室(せいしつ)とその生んだ子、つまりマリアと彦一を離縁せざるを得なかったわけだ。対馬宗氏(つしまそうし)が生き残るためには避けて通れない道だったとはいえ、義智にとっては身を斬られるより辛い決断だったろう。
そこで義智が、かつて彦一の傅役(もりやく)だった宗玄に、意を含めて、母子の行く末を見守らせるため、彼を長崎に送り込んだのだった。
宗玄の”対馬追放”の裏にはそういう事情があった。”追放”とは江戸新政権に配慮した方便(ほうべん)だったわけだ。宗玄はそう語ったのだった。
かえりみれば、もともと、宗 義智と小西行長の娘との婚儀(こんぎ)は、かの豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)がセッティングしたものだった。秀吉が朝鮮侵略(「文禄(ぶんろく)の役」)を起こす直前のことだった。当時よく行われた政略結婚とはいえ、当人同士は仲むつまじかったと伝えられる。
その当時、宗 義智は”対馬殿(つしまどの)ダリオ”と呼ばれたキリシタンだった。小西行長の娘も、マリアという洗礼名を持つキリシタンであった。そして彦一が生まれた。
「…このことだけは、なんとしても、若にお伝えしたかった…」
宗玄はそう語ると、静かに目を閉じた。つい先ほどまでとは違って、とても安らかな表情になっていた。
彦一は、すぐさま脈を見て、瞳孔(どうこう)の様子を調べた。医者の顔に変わっていた。
しかし、その直後、まるで母を見送った少年の時分に戻ったかのように、宗玄のからだを揺さぶり続けて慟哭(どうこく)した。
宗玄のなきがらを荼毘(だび)にふし、彦一たちが喪(も)に服していた頃だった。長崎市中は騒然とした雰囲気に包まれていた。
先だって、徳川家康は、自らの側近(そっきん)、本多正純(ほんだ・まさずみ)の家臣になっていた岡本大八(おかもと・だいはち)と九州肥前(ひぜん)の日野江城主・有馬晴信(ありま・はるのぶ)の両名をそれぞれの流刑先で処刑あるいは切腹させたあと、まず直轄領で、「キリシタン禁教令」の第一声を挙げた。
長崎では、長崎奉行の指揮のもと、各地区のイエズス会など耶蘇(ヤソ)教各会派の分駐所への手入れ、宣教師の捕縛(ほばく)が町のあちらこちらではじまった。
捕縛された宣教師たちは、国外退去を命ぜられた。また、日本人の信徒たちは改宗や転宗を強要された。
そんなおりだった。
しばらく連絡が取れなくなっていた、元・小西浪人(こにしろうにん)の三郎太(さぶろうた)から、人を介(かい)して連絡があった。
彦一は、綾香だけに事情を説明し、長庵(ちょうあん)夫婦にはなにも打ち明けずに、こっそりと指定された場所へ出かけた。
「若、おひさしぶりです」
彦一は、はじめ、一見して誰かわからなかった。そこには放浪者に変装した三郎太がいた。
「若は、やめてくれ…」と彦一は苦笑した。
三郎太はさっそく、路地裏の人目につかないところまで彦一を導いた。そして周囲に気を配りながらこう言った。
「六兵衛(ろくべえ)どのが、倒れて寝込んでいます。どうか、診てやってください」
三郎太によれば、病院に連れて行きたくても、イエズス会ゆかりの病院などは長崎奉行の手がまわっていて近づくこともできない。市井(いちい)の開業医は、時節柄、奉行所からあらぬ疑惑をかけられるのを恐れて、キリシタンの患者は門前払いだ。
困り果てた末、迷惑を承知で彦一に連絡をとったのだった。
「迷惑などと何をいう」と彦一はきっぱりと言った。「頼りにしてくれてうれしい。とにかく案内を」
彦一は三郎太に長屋の一軒に案内された。
薄暗い部屋のなかに蒲団が敷いてある。人が寝ているようだ。
「三郎太か? …」
そこから、彦一にとって、聞き覚えのある声がした。
目が慣れると、無精ひげを伸ばした一人の男がそこにふせっていた。
「彦一です。ご無沙汰しておりました…」
男は驚いた様子で、床からむっくりと起き上がったようだった。
「三郎太よ、あれほど彦一さまには知らせるなと言うたのに…」と男は言った。
男は間違いなく、彦一がよく知っている六兵衛だった。やつれ果てているとはいえ、往年の剛の者の面影は失っていない。
「三郎太を責めないでください」と彦一は言ってひざまずいた。
床から起き上がった男は膝で少しにじり寄ると彦一の手を握って再会に感無量の様子だった。
「とにかく、いてもたってもいられず容態を見に来ました」と彦一は言い、「まずはどうか楽にしてください」
彦一は床にあった男を一通り診察した。
診察が一通り終わると、積もる話で、しばし時を費やした。
港での荷の積み降ろしの日雇い仕事も、二十代の三郎太はともかく、四十歳を過ぎた六兵衛にはきつかったろう、と彦一は察した。
ポルトガル船との中国産生糸(きいと)をめぐる交易が盛んだった頃は、彦一母子の暮らしを支えるだけの、交易関係の仕事があった。
しかし、それが、幕府が次第に危険視するようになったキリシタン信徒の資金源になっている、と奉行所からにらまれるようになると、異国貿易に関する商売から締め出されることになったという。
慣れないきつい仕事に不安定な収入。追い打ちをかけるようにキリシタン取り締まり…最近では息をひそめるような日々で、もはや心身ともに限界に来ていた。
彦一は、その後、何度か六兵衛のもとを診察を兼ねて通っていた。長庵には、出張診療だ、と言って。
「顔に生気が戻ってきたようですね。まずはひと安心です。六兵衛さん」と彦一は床で診察をおこなった男に向かって言った。
「彦一さまに、こんな時節に、あやうい思いをさせて申し訳ない…」
その男はしきりに恐縮する。
「何を言ってるんですか」と彦一は応じ、「あの頃、私たち母子がこの町で生き抜けたのは、あなたや三郎太どののおかげなんです。私が、あなたがたから受けた恩に比べれば、こんなこと、なんでもありませんよ」
男は何度も彦一の言葉にうなずきながら、涙を流した。
やがて。六兵衛は彦一の適切な治療と助言で全快した。
六兵衛は、さすがに往年の侍大将の面影はなくなってはいた。が、毅然とした態度で彦一にあらためて向き直ると、何かを決したように口を開いた。
彦一も彼が何かを決意したことを察したものだった。
「それがしも、三郎太も、この国で、このままこそこそ生きるよりも、キリシタンとして、大手を振って生きていける国へ行くことに決めました。日ノ本だけが国ではない」
同席していた三郎太も、それを聞いて、ふかくうなずいた。
「どこへ行くのですか? 」そう彦一が問うと、マカオです、と六兵衛が答えた。
<マカオか…>
彦一は今は亡きルイス・コインブラを思い出していた。(つづく)
『玄長秘話(げんちょう・ひわ)』のエントリ


