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小説『李藝 最初の朝鮮通信使』金住則行(かなずみ・のりゆき)・著 河出書房新社(C)2011

  • posted by: uro
  • date: 2012/01/14 AM12:50 (土)

『李藝---最初の朝鮮通信使』金住 則行

 主人公の李藝(イ・イエ、1373~1445年)は実在の人物だ。ハングル文字を創らせた朝鮮王朝第四代国王・世宗(セジョン)に仕えた外交官だ。彼は、母親を、歴史上”倭寇(わこう)”と呼ばれる盗賊的武装集団に拉致(らち)された経験を持つ。彼が8才のときだというから1381年頃だ。
 この作品を読む上で避けて通れないのが、この”倭寇”のことだ。この集団は、時代によって、あるいは時期によって、その構成要員の実態が異なる。李藝が幼少の頃、朝鮮半島はまだ高麗(コリョ)王朝時代だ。この頃、王朝とその住民にとって最大の災いは対馬、壱岐、五島列島、北九州あたりから押し寄せてきた盗賊的武装集団だった。高麗側の住民や中国人も混じっていたとはいえ、大方は日本人だったという。被害地域は朝鮮半島南部の沿海部が最もひどく、王朝の首都だった開京(ケギョン、現・開城(ケソン))周辺、中国の山東半島付近まで”遠征”していた連中もいるほど。かなり内陸部まで侵入しており、集団戦法に習熟し、その行動は組織だっている。
 ”倭寇”が狙ったものは米と人間だった。米は自分たちの軍勢を養うための兵糧であり、人間の拉致は軍資金を稼ぐための転売目的と思われる。
 いったい何がそういう行為をエスカレートさせたのだろう? 少なくとも百年前の”元寇(蒙古襲来)”の報復ではなかろう。李藝の母親が巻き込まれた ”倭寇”の最盛期は1370年代~1380年代だ。
 ”倭寇”の正体を突きとめるうえで手がかりになるのが、「14世紀後半という時代」、そして、「朝鮮半島に近い九州」という地域特性だ。当時のわが国は南北朝動乱期(※)。まさに武家政権が朝廷にとって代わって政治的な実権を掌握していく過渡期だった。なにしろ、天皇が二人いて、政治的な立場の違いで年号が複数並び立っていた時代である。高麗側も、倭寇取締りを要請したくとも、どの政権へ使節を派遣するのが適切か、当初は頭を悩ませたことだろう。
 九州は一時、南朝方が優勢だった時期があった。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の息子の一人で、”征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)”と呼ばれた懐良親王(かねよししんのう)が九州南朝勢にかつがれていた時期が”倭寇”の最盛期と妙に合致するのだ。僕はこの時期に朝鮮半島を襲っていた”倭寇”は南朝方の残党が主力ではないかと思う。
 ちなみに、この作品は日韓で同時に発売されたという。

(※)『南北朝の動乱』(中公文庫「日本の歴史」9)佐藤進一・著 中央公論新社(C)1974 …この時期の日本側の社会情勢を知るうえで、ぜひ読みたい一冊。

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